「諦観」とは?
「諦観」という言葉には、(たいかん)(ていかん)という2つの読み方があります。意味も異なってきますので、それぞれに分けて述べていきましょう。
【諦観(たいかん)】
- 仏教用語。諦か(あきら・か)に真理を観察すること。どんな結果にも必ず原因がある、という道理を明らかに見つめること。
【諦観(ていかん)】
- ことの全体を見通して、その本質を見極めること。入念に詳しく見ること。
- 事態を察し、諦めること。俗世への欲望を断ち、超然とすること。
仏教からみた「諦観」
「諦観」は、一般的に使われながらも、やや仏教的なニュアンスを含む言葉です。そもそも仏教の教えから派生していったプロセスがあるため、「諦観」を理解するためには仏教的な背景を知ることが必要です。
「諦」の字義と仏教的解釈
「諦」の字義は、次のとおりです。
- あきらめる、断念する、望みをすてる。
- あきらか、つまびらか。
- 真理、まこと。
仏教用語としては3の意味、一般的使い方は1、2の意味です。仏教における「真理をあきらかに見つめる」とは、要は事象の本質を理解することであり、すべて「諦か」になったとき、執着や現世の苦からも解放されます。そのような背景があっての「諦め」なのです。
したがって、「諦観」の一般的な意味においても、物事を詳しく見ることも、あきらめることも、深い理解からの達観や手放し、というニュアンスを含むのです。
「諦観」の使い方
ここでは、一般的な言葉としての「諦観」(ていかん)の使い方について述べていきます。なによりも大切なポイントは、上記に挙げたように、仏教用語の「諦念」を背景とした「物の見かた」「執着へのあきらめ」を理解して用いることです。
ある物事をただ観察するのではありません。様々なデータから分析する、などの表層的な見方だけでなく、物事の本質、例えば事象は常に移り変わる、などの真理に基づく見地から物事を観察したり出来事をあきらかにしたりするニュアンスで使いましょう。
あきらめる、という意味で用いる時にも、お金が足りないからブランド品の購入をあきらめる、などのネガティブなギブアップではなく、その状態をみつめ、ことの本質にふれたときに執着を手放すという、ポジティブなあきらめが「諦観」といえます。
「諦観」の例文
- 優れた一国の指導者の条件のひとつは、たとえ戦争が起こったとしても、その状況を諦観し最善の解決策を見出す力をもっていることだ。
- 中村社長は、構造不況がとまらない経済状態のなか、事態を諦観しつつ最善の経営を貫いた。
- 賢一君は、貧困苦の連続のなかにあった十代までの人生を諦観し、のちの成功へと生かしていった。
「諦観」を用いた慣用句
「諦観」は少々難しい言葉ということもあり、単体で会話に登場する頻度は多くありません。ですが、「諦観の念」「諦観の境地」という言い回しは、時にあらたまった場やビジネスシーンなどで会話にも場することがありますので、覚えておきましょう。
「諦観の念」
「諦観の念」の「念」は、ここでは(おもう、おもい、考える)という字義で用いられています。つまり、「諦観の念」とは、「諦観」の思いでいること、そのような状態であることを意味する慣用句です。
【文例】:現在の不況においての営業ですから、ここは諦観の念をもち、腹をくくって臨みましょう。
「諦観の境地」
「境地」は、多義的な言葉ですが、共通する意味は、人の心、あるいは事象が到達したところと言えましょう。仏教用語に使われることが多く、「悟りの境地」「無我の境地」はよく見聞きします。
「諦観の境地」での「境地」は、ある状態に到達した心の状態、経験や修養をへて得られる心境、という意味で使われています。「諦観の念」と似てはいますが、「念」は思いに重点があります。「諦観の境地」は、そのような「念」をもつ状態であることを示します。
【文例】:幾多の困難が重なったすえに諦観の境地に達した山田氏は、淡々と問題の解決に取り組み始めた。