「心は錦」とは
「心は錦」がどのような意味をもつのか、まずは元となった言葉「被褐懐玉(ひかつかいぎょく)」について理解を深めましょう。
なかなか難しい言葉ですが、これは古代中国の思想家・老子の著書『道徳経』70章にある「是以聖人被褐懐玉《これを以って聖人、褐(かつ)を被(こうむ)り、玉(ぎょく)を懐(いだ)く》」という一節です。
「褐」は、粗末な着物のことで、聖人は粗末な着物を着ていても、懐(ふところ)には玉を持っている。つまり、「被褐懐玉」は、見かけはみすぼらしくても、内面には玉(すぐれた徳)を持っているということを説明したものです。
「心は錦」
「被褐懐玉」を日本語の表現に置き換えたものが、「ぼろは着てても心は錦(にしき)」という言葉です。着ているものはみすぼらしくても、心の中は豊かですぐれた徳を備えているというのが、「心は錦」の意味するところです。
さらに「心は錦」は、錦のような美しい心や見た目ではわからない能力・才能とかいった意味に派生し、また、人を外見で判断してはいけないという含みもあります。
「ぼろは着てても心は錦」について
もう少し、「ぼろは着てても心は錦」について見ていきましょう。「ぼろ」は「襤褸」と書き、着ふるして破れた衣服やぼろ布のことです。ぼろぼろと言えばわかりやすいですね。
これに対して「錦」は、美しい着物(高価な絹織物)のことで、「襤褸」とは正反対です。この「錦」は、老子の言葉の「玉」を置き換えていますが、どちらもすぐれた徳の比喩として使われています。
また、老子は、内面を例えるのに「懐」を使っていますが、日本語では「心」と、直接的でわかりやすい表現が用いられています。日本と中国の比喩の違いが感じられる部分でもあるでしょう。
「心は錦」の使い方
「心は錦」は、目に見えない徳・心持ち・才能といった内面を大切にするということを表現する場合に使われることが多いでしょう。
例文
- 彼は苦学生で、バイトを掛け持ちして学費や生活費を稼いでいるが、心は錦のようで全く擦(す)れたところがない。
- いくら心は錦でも、経済力のない人と結婚するのはちょっとね。
- 僕は、物質より精神のほうが大事だと思うから、心は錦の気持ちで一生を送ろうと思う。
「心は錦」の類語
「心は錦」は、人の内面を重視する言葉ですから、そういった意味を持つ言葉をいくつか紹介します。
「錦心」
「錦心(きんしん)」は、錦のような美しい心や優れた考えという意味があります。「心は錦」をひっくり返したような言葉ですが、意味も似通っています。
「錦心」は、すぐれた詩や文章の才能、あるいはその才能を持った人のことを表す錦心繍腸(きんしんしゅちょう)、あるいは錦心繍口(きんしんしゅこう)という言葉が元になっています。「繍口」は、刺繍のように美しい言葉を表します。
【例文】
- 自分が苦しい立場に立たされていても、他人のことを思いやり、いたわる人のことを錦心があると言うのだろうか。
- お金や地位がなくても、錦心の精神で生きていくことが大事だよ。
「気高い」
「気高い(けだかい)」は、どことなく品位があるとか冒(おか)しがたい気品があるといった意味の言葉です。この品位や気品は、見た目や容姿だけでなく、内面からにじみ出る雰囲気や、オーラのようなものも表現しています。
見た目の上品さ、高貴さを含めて「気高い」と表すことが多いですが、外見よりも内面が重要である、ということを言外に伝えている面もあるでしょう。
たとえば、革命で貧しい身分に落とされた女王様がいたとします。内面の美しさ、品格を備えた人物であれば、どんなにみすぼらしい見た目でも、「気高い」雰囲気は感じ取れるものでしょう。「心は錦」に通じる部分があると言えそうです。
【例文】
- 彼は、キャリアはありませんが、だれにも負けない気高い心を持った信頼に足る人間です。
- 彼女のもの静かな佇まいと透明な瞳には、気高い魂が宿っているように感じられる。
歌謡曲の「心は錦」
「いっぽんどっこの唄」という歌をご存じでしょうか。この歌は「ぼろは着てても、こころの錦 どんな花よりきれいだぜ」という歌詞で始まります。1966年に水前寺清子という歌手が歌ってミリオンセラーになりました。
歌詞は「こころの錦」となっていますが、「心は錦」あるいは「錦心」と同じ意味です。「いっぽんどっこ」は「一本独鈷」と書き、博多織の帯のことですが、この歌では博多男児の心意気を表現していると言われていて、見た目よりも中身が大事という意味で使われています。
年配の方には懐かしい曲の一つに数えられますが、2000年以降、氷川きよしや天童よしみがカバーしているので、演歌好きの方も聞いたことがあるかもしれません。