「杜撰」の読み方
「ずさん」と読みます。漢字を見るとなにか難しいイメージですが、ニュースなどでよく聞く言葉ですね。「杜(ず)」も「撰(さん)」もちょっと特別な読み方ですので、文章のなかに「杜撰」という漢字を見かけても、「あれ、なんて読むんだっけ?」ととまどってしまうかもしれません。「杜」は会社の社と違って木へんの漢字なので注意しましょう。
「杜撰」の意味
「杜撰」という言葉は、
1.「文章に典拠がなく、間違いが多い」
2.「物事がいいかげんな」「適当な」「手抜きをした」
という意味をもっています。とくに現在の日本では、1から転じて2の意味でよく使われています。きちんと実行することが求められている物事に対して、適当でいい加減にすませたりするような場合や、決められた規則やマニュアルがあるのに、怠惰や慣れのためにきちんとそれを守っていない、というニュアンスがあります。
「杜撰」の用例と類義語
具体的に、杜撰はどのように使われているのでしょうか。こんな場面でよく聞かれますね。
「調査の結果、A社の杜撰な管理の実態が明らかになった。」
「Bさんは杜撰な仕事ぶりをとがめられて、クビになった。」
「長年にわたる杜撰な会計処理のため、C社の経営状況は急速に悪化した。」
杜撰の類義語としては、「手抜き」「適当」「おざなり」「ずぼら」「野放図」などがあります。もっと度を超すと「でたらめ」ということになりそうです。
「杜撰」の由来
中国・宋の時代に杜黙(ともく)という詩人がいました。この人の作った詩の多くが定形詩の規則に当てはまらなかったことから、杜撰という言葉が生まれたといわれています。撰とは「(詩文などを)つくる、編集する」という意味です。日本の俳句の世界などでも、種田山頭火の作品のように伝統的な五・七・五の定形にこだわらない自由律と呼ばれるジャンルがありますね。
『分け入つても分け入つても青い山』(種田山頭火)
『墓のうらに廻る』(尾崎放哉)
「杜撰」の由来と意味のずれ
でもよく考えてみると、杜黙が詩の規律を守らなかったことと、「誤りが多い」「いいかげんに事をすます」という現在の使い方ではちょっとずれているような気がします。さきにあげた自由律句の俳人たちは、一部の正統派の俳人たちから厳しく批判されたりもしました。かれらの作品が型破りであることは確かですが、「いいかげん」とか「間違い」であるかというと、そういうわけでもありません。
実は現在使われている意味での杜撰の由来ははっきりとはしていないのです。先に示した杜撰という言葉の由来は、王楙(おうぼう)という人が書いた「野客叢書(やかくそうしょ)」によるもので、現在もっとも流布されている説なのですが、「杜」とは、杜黙でなく別の人をさすという説もあります。つまり詩文の規則うんぬんではなく、「ただ単にいいかげんな人」のことを指していたのかもしれません。(もしそうなら、杜黙さんから言葉の使い方が杜撰だと怒られてしまうかもしれませんね。)
「杜撰」の使い方の注意点
成語としての杜撰は「杜黙がつくった詩文」あるいは「杜黙が詩文をつくること」をさしますから、物事に対して使われる言葉であり、「あの人は杜撰な人だ」などと人を主語にした使い方は誤用です。また、新米社員の未熟な仕事に対して「杜撰な作業だ」というのも少し的はずれの非難のようです。単に下手であるとか運悪く失敗してしまったというのではなく、真面目に取り組めばちゃんとできるのに、心がゆるんでいるために不都合な結果を招いたという語感を持つ言葉です。
以上、杜撰について説明しました。もし自分の仕事に対してこの言葉を使って非難されたらそれは不名誉なことですね。十分に注意したいものです。