「常識」とは?
「常識」(じょうしき)とは、「一般的な人、普通の能力を有する人が持っている、または当然持っているべき知識」のことであり、より広義には、「知識」に留まらず「一般的知識に基づいた理解力・判断力・分別」のことも含む言葉です。
少々ややこしい意味に感じられるかもしれませんが、差し当たって「常識」とは、「当然、みんなが知っていること(そう想定される知識や振る舞いのこと)」であると受け止めて問題ありません。
もし、「みんなとは誰のことか?」や、「何をもって『常識』が認定され、誰がその正当性を保証するのか?」といった点が気になった方は、後ほど考察をご紹介します。
「常識」の使い方
「常識」という言葉は日常的にかなり広いニュアンスで使用される傾向があり、「常識ではないこと」すなわち「非常識」との境界線ははっきりしたものではありません。
むしろ、「常識」とは明確な定義をもたず「人々に共通していると思われる知識・考え方」を差す「ふわっとした言葉」として運用するのが基本と言ってよいでしょう。厳密でないぶん、使いやすい言葉といえます。
ただ、その性質上、主観的に偏った考えを「こんなことは常識だ」と他人に押しつけたり、専門的な議論に「常識」という曖昧な用語を持ち込むことで混乱を呼んだりするリスクもありますので、ご留意ください。
「常識」は不変ではない
基本的な注意点として、「常識」は不変の概念でない点に注意しましょう。時代・文化・民族集団などによって「常識」はばらばらであり、しかも時勢によって何度も改訂が加えられてきました。
例えば、かつて女性に選挙権がなく、男性より諸権利が低く設定されていることは(日本だけではなく世界的な)「常識」でした。しかし、現代社会でこれを「常識」と言う人は、まず間違いなく「前時代的、時代遅れ」と非難されてしまうでしょう。
このように「常識」は(これまでも、これからも)いくらでも変わりうるのであり、不変の原理のようなものを差すわけではないという点にご注意ください。
例文
- スーツとネクタイ必須の職場にアロハシャツ一枚で出社したところ、「常識を考えろ」と上司に叱られた。
- 「タイ焼きは本物のタイ(鯛)を焼いているわけではない」という知識は日本人にとっては常識だが、初めて訪日した外国の友人からすると衝撃的な事実だったらしい。
- 芸術家の彼女は、仕事の上では優秀だが、電車の乗り方もわからないほど一般常識が欠落している。
- あのベンチャー企業は、目覚ましいアイディアで商品を販売し、「人は安い物を買う」というそれまでの業界の常識を打ち破った。
「常識」の類語
コモンセンス
「常識」は、英語「コモンセンス」(common sence)の訳語です。すなわち「常識」の同義語として理解してよいでしょう。そのまま単語を訳すと、「共通のセンス(感覚)」という意味です。
横文字がそのままカタカナ語として輸入されることも多い日本語ですが、「常識」という訳語が広く普及していることもあってか、「コモンセンス」という言葉の出番はあまり多くありません。
【例文】:後からやって来た民族が、先住民に「動物を殺すな」というコモンセンスを押し付けてよいものだろうか?
良識
「良識」(りょうしき)とは、「社会人として健全な判断力」という意味の言葉です。「常識」と似ていますが、わざわざ「社会人として」や「健全な」と言っている部分に注目しましょう。
すなわち、「良識」は「常識」よりも(社会的に見て)知的で高級である、より優れているといったニュアンスが特徴です。
【例文】:私は最後の説得材料として、彼の人間としての良識に訴えた。
パラダイム
「パラダイム」(paradigm)とは、元は哲学用語ですが、社会用語として「時代に共通の思考の枠組み」や「ある時代における支配的な物の見方」という意味もあります。
例えば、それまで常識とされていた「天動説」が否定され、「地動説」が正しいとされたとき、「パラダイムが変わった」(=パラダイムシフト)と表現されます。これは「常識が変わった」と言い換えてもよいでしょう。
【例文】:昔のアメリカ映画などを見ると、「ベトナム戦争への反省・反戦」のパラダイムを採用したものが多く見つかる。
分別
「分別」(ふんべつ)とは、元は仏教用語で「理性によって物事の善悪・道理を区別してわきまえること」という意味ですが、一般的には「世間的な経験などから出る考え・判断」といった意味でも使われます。
「分別のある人」は「常識のある人」と言うこともでき、同義語的に使うことができるでしょう。
【例文】:あの人は分別がある人だから、安心して仕事を任せられる。
「常識」は誰が決めるのか
共通の感受性
「常識」は、「人々のあいだの、共通の感受性のこと」と言い換えられます。例えば、今までに経験したことのない物事(親しい人の死など)に直面したとき、人間はその「受け止め方」を用意する必要性に迫られます。
大抵の場合、千差万別というほど見方は分かれず、「この物事は、このように受け止めよう」という「共通した感受性」が人々の間に形成されます。その感受性のありかたがその社会で支配的となった時、その感受性に基づく思想・考え方が「常識」として登録されるのです。
逆に言えば、そのような「共通の感受性」を持った人が、事後的に「みんな」「一般的な人」「普通の能力を有する人」として浮かび上がると言うこともできるでしょう。
「常識」と社会
上で説明したように、「常識」は人々の「共通の感受性」によって自然形成されるものですので、誰か特定の人がその正当性を保証するわけではありません。
「常識」は常に不定形で不明確なものですので、常に変化の可能性を孕んでいます。特に、大きな事件などが起こった社会では、新しい「共通の感受性」が生み出され、新しい「常識」が生まれていく可能性があります。
特に、多様性が重んじられる現代日本社会では、「常識」とされる知識が誰にとっても同じ重みをもつことは少なく、そこに付託される価値も多様化しつつある、といえるかもしれません。