「心が洗われる」とは
「洗う(あらう)」には、おもに次のような意味があります。
- 水などで汚れを取り去る。綺麗にする。
- 犯罪や秘密など、隠れている事柄を調べ上げる。
- 海や川の水が打ち寄せて物にかかる。
「心を洗う」は1の意味を用いた慣用表現で、心の汚れをすすぎ清めることを指します。「心が洗われる」は「心を洗う」の受動態です。
「心が洗われる」の意味
「心が洗われる」とは、穢れた(けがれた)部分を洗い落とすことで心が綺麗になる、または、そのように感じられるという意味の慣用表現です。つまり、清々しい気分になることを表しています。
「心が洗われる」の使い方
何によって清々しい気分になるかは、人により、時により違いますね。「心が洗われる」は、景色、芸術、音楽、人の真心や行動など、さまざまなものに対して使われます。
【使用例】
- 懐かしい故郷の景色を見ていると心が洗われる。
- 優れた仏像と向かい合っているだけで心が洗われた。
- 彼のバイオリンの音色はとても豊かで、心が洗われる気分だ。
- 子供が横断歩道で老人の手を引いている。その無欲な行いに心が洗われるようだった。
「心が洗われる」の類語
「心が洗われる」のように、心が綺麗になるといった意味の言葉には、次のようなものがあります。
「浄化」
「心が浄化される」「精神が浄化される」といった言い回しは、「心が洗われる」に類する言葉です。この場合の「浄化」は、罪や穢れを取り除くことを表しています。
【使用例】
- 森の空気を吸うと心が浄化されるようだ。
- 神社に参拝して精神が浄化された。
「カタルシス」
「カタルシス」はギリシャ語で排泄や浄化を意味する「katharsis」に由来する言葉です。「カタルシスを得る」「カタルシスを感じる」などの言い回しは、「心が洗われる」に類しています。
【使用例】
- 自分と同じような辛い経験を描いた物語にカタルシスを得る。
- 困難を乗り越えてる主人公の生き様にカタルシスを感じる。
浄化などの意味であった「カタルシス」という言葉は、アリストテレスによって、とりわけ悲劇がもたらす次のような効果を指すものとして使われるようになりました。それは、「読者が物語に感情移入することで、日頃抑圧されている感情が解放されるという快感を得る」こと。
よって、「カタルシスを得る」もととなるのは、文学・演劇・映画など物語性があるものです。また、精神分析の分野では、「カタルシス」とは、無意識の内側に押さえ込まれている心のしこりを表面に出させることで症状を消失させる治療方法を指し、通利療法とも呼ばれています。
「清める/浄める」
「清める/浄める(きよめる)」には、①穢れや汚れを取り除いて綺麗にする、②恥や汚名などを取り除くというふたつの意味があります。「心が清められる」「精神が清められる」は「心が洗われる」と同じ意味です。
【使用例】
- 聖堂に響く讃美歌に心が清められる気がする。
- 孫の無邪気な笑顔に精神が清められるようだ。
「洗う」にまつわる慣用句
「足を洗う」
「足を洗う」は、修行から戻った僧が泥がついた足を洗うことで、煩悩を洗い清めてから仏業に入ることに由来する言葉です。
好ましくない職業や生活を改める・悪い仲間から離れることを指し、「もう賭け事からは足を洗ったんだ」のように用いられます。簡単に言えば、堅気(かたぎ)になるという意味ですね。
また、近年では、仕事の良し悪しに関わらず、現在の職を辞めることを「足を洗う」ということがあります。
「命の洗濯」
たまの休日に温泉に浸かって「命の洗濯だね」などと言うことがあるでしょう。これは入浴で体を清めるということを言っているわけではなく、日々の苦労から解放されてのんびりすることを表しています。寿命が延びるくらいに楽しむということですね。
「汚名を雪ぐ」
「汚名を雪ぐ(おめいをすすぐ・おめいをそそぐ)」とは、悪い評判や不名誉を振り払うこと。「汚名返上(おめいへんじょう)」と同じ意味です。「すすぐ」は「濯ぐ」と表記されることもあります。
「濯」は水でゆすいで汚れを取り去るというニュアンスですので、払い清めるという含みがある「雪」が用いられる場合が多いようです。
「赤貧洗うが如し」
とても貧しく、洗い流したように持ち物が何一つない様子を「赤貧洗うが如し(せきひんあらうがごとし)」と言います。
ところで、「赤貧」と似た言葉に「清貧(せいひん)」があります。こちらは、私欲を捨て、正しい行いをしているために生活が質素であることを指します。持ちたくとも持てないのが「赤貧」、あえて持たないのが「清貧」です。混同しないようにしましょう。