「座して待つ」の意味
座って待つ
「座して待つ」を文字通りに受け取ると、座って待つという意味になります。しかし、この意味で使われることはあまりありません。
「座」は座ること。正座や座禅にも使われていますよね。元々は座る動作を「坐」、座る場所を「座」と使い分けていたそうです。今では「坐」を使わないので、どちらの意味にも「座」を使用します。
何もしないでいる
「座して待つ」は慣用的には何もしないでいるという意味で使われます。黙ってみているだけで関わろうとしないことを「座視」と言いますが、「座して待つ」も同じく手出ししないでいることです。
ひとまず様子を見る、ことの成り行きに任せるという意味でもあります。状況が良くなるのを待つという意味では「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」のような態度ですね。
一方、完全に諦めてしまっている、熱を失っていることもあります。「やったって無駄だ」「出来るわけがない」「どうしようもない」といった態度です。
「座して待つ」の使い方
「座して待つ」は、多くの場合、何もしないでいることを批判するときに使われます。動かなければならない、行動するべき時に何しないでいるという意味です。「座して待つようなことはしない」なら、放置せずに努力する、ですね。
時代小説などの戦争や戦いを扱った小説では、緩やかに衰退していくことや滅びを受け入れるという意味でもあります。抵抗や反抗とコントラストをなす表現です。「座して待つよりは戦って死のう」のように使います。
例文
- 自分の出番が回ってくるのを控室で座して待つ。
- 私の父は放任主義というか、座して待つことを好む。
- 座して待つよりはできることをした方がいい。
「座して待つ」の由来
「座して待つ」は元々「座して死を待つ」だったそう。「死」という文字のインパクトを抑えるために省いた結果、今の形に落ち着いたようです。
『三国志』で有名な諸葛亮公明が弟子に「座して死を待つよりは出でて活路を見出さん」と教えを述べています。現代語なら「何もしないで死ぬくらいなら危険を冒してでも生き延びる方法を見つけなさい」です。
「座して待つ」の言い換え
対岸の火事
「対岸の火事」とは自分には関係のないこと、影響が及ばないことのたとえです。川の向こう岸で火事があったとしても、川を越えて火が飛んでくることはおそらくないでしょう。
無関心ではいけない、他人事ではないという意味で「対岸の火事ではない」「対岸の火事にしてはいけない」といいます。無関心ではいけない、他人事ではないという意味で「対岸の火事ではない」「対岸の火事にしてはいけない」といいます。また、他人事だからと手出ししないことを「対岸の火事視する」とも。
自分に火の粉が降りかかることがないので、好奇心から見に行くことのたとえにもなります。物見遊山、野次馬と同じですね。
手を拱く
「手を拱く」とは腕組をすること。あるいは黙って見ていること。行動を起こさないで見過ごす、傍観することに使います。
準備万全で待ち構えるという意味に誤解している人も多く見られます。文化庁が行った平成20年度の「国語に関する世論調査」では「傍観する」が40パーセント、「待ち構える」が45パーセントと拮抗しています。
読み方は本来「てをこまぬく」が正解です。しかし、近年では「てをこまねく」も多くなっています。読み方を併記している辞書も多く、どちらでも大丈夫です。
目をつぶる
「目をつぶる」は目を閉じることですが、比喩的に現実を直視しないことも表します。つらい事実、厳しい現実から目をそらすこと、一種の現実逃避です。
何も行動しないという点では「座して待つ」と同じです。ただ、「座して待つ」は諦めながらも現実を受け入れている、「目をつぶる」は現実を拒否して逃げているという違いがあります。
なお、「つぶる」は「つむる」とも書きます。どちらでもOKですが、元になったのは「つぶる」の方です。