「田畑政治」とは
「田畑政治(たばた・まさじ)」は日本の歴史上の人物です。主に大正から昭和にかけての時代に活躍した人で、新聞記者であると同時に水泳の指導者としても大きな足跡を残しました。
「田畑政治」の再評価
令和元年(2019年)現在、この田畑を主役にしたNHKの大河ドラマが放送されるなど、彼に対し再び世間の注目が集まっています。
これは、令和2年(2020年)に史上2度目となる東京オリンピックの開催を控える中で、昭和39年(1964年)に開催された第1回東京オリンピック当時の状況について、関心が高まっているためです。
第1回の東京オリンピック開催について語るとき、「オリンピックを呼んだ男」こと田畑政治のことは、はずすことはできないでしょう。
「田畑政治」の略歴
生い立ち
田畑は、明治31年(1898年)12月1日に静岡県浜松市で生まれました。東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業、大正13年(1924年)に東京朝日新聞社に入社しました。朝日新聞社では記者として活躍し、政治経済部長などを経て、昭和24年(1949年)には常務に就任しています。
日本スポーツ界への貢献
新聞社で働くかたわら、田畑は日本の水泳競技の指導やスポーツ界の先導を積極的に行いました。昭和7年(1932年)のロス・アンゼルス五輪をはじめ、多くの大会で水泳総監督や選手団団長を務めています。
敗戦まもない昭和21年(1946年)に日本水泳連盟会長に就任。昭和34年(1959年)には東京五輪組織委員会事務総長になり、同48年(1973年)にはJOC委員長となっています。
生涯を通じてスポーツとともに邁進した田畑が亡くなったのは昭和59年(1984年)8月25日のこと。享年85歳でした。
「田畑政治」の人物像
水泳との関わり
田畑の実家は造り酒屋で、とても裕福でした。田畑家は浜名湖に浮かぶ小島に別荘を持っており、幼い田畑は「浜名湖のカッパ」とあだ名されるほど水泳にのめり込みました。
しかし、旧制中学校時代に患った大病の影響により、医者から水泳を止められることとなり、競技者としての道は諦めなければなりませんでした。その代わりに田畑は後輩の指導に目覚めることとなります。
精力的な活動
田畑の人物としての特徴をあげるならば、抜群の行動力と企画力をあげることができます。
中学生時代から地元の中学校4校を束ねて游泳協会を創立し、水泳を指導するなど、その情熱は折り紙つきのものであったようです。
また、二足のわらじを履いてものともしない壮健な人物でもありました。
東京帝大時代には実家の財産にものをいわせて浜名湖にプールを作り、たびたび帰郷しては後輩の指導に精を出しました。
朝日新聞社の社員であった時も大日本水上競技連盟、大日本体育協会、オリンピックと関わり続けるなど、記者とスポーツ指導者と、どちらが本業であるのかわからないほどであったと言います。
1964年東京オリンピックへの貢献
幻の東京オリンピック
(第一回)東京オリンピックは昭和39年(1964年)に開催されましたが、実はその24年前、昭和15年(1940年)にも、東京でのオリンピック大会の開催が決定されていました。しかし、当時の不安定な政情などの理由により、開催権を返上しなくてはならなかったという事情がありました。
東京五輪開催
田畑など、若い頃からオリンピックに情熱を燃やしていた人々にとっては、戦争を終え、民主主義に基づく文明国として蘇った日本に再びオリンピックを招致することは、まさしく悲願であったのでしょう。
田畑は東京オリンピック開催に向けて、早い時期からその広い人脈を通じて招致活動を続けました。そして開催が決まり、組織委員会が発足してからも、事務総長として競技会場や選手村、プレスセンターの立地・建設計画を遂行、また女子バレーボールや柔道を公式競技化したり、アジアを巡る聖火リレーを企画したりと八面六臂の活躍を見せたのです。
大河ドラマ『いだてん』
令和元年(2019年)現在NHKにて放送中の大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』(いだてん とうきょうオリンピックばなし)は、田畑政治を主人公の一人として抜擢したテレビドラマです。
田畑を演じるのは独特の存在感で知られる俳優・阿部サダヲ。脚本は阿部の盟友でもある宮藤官九郎が務め、もう一人の主人公金栗四三役は、歌舞伎俳優である6代目中村勘九郎が務めています。