「ついな」とは?意味や使い方をご紹介

みなさんは「追儺」の読み方をご存知ですか?これで「ついな」と読みます。「ついな」は宮中の行事の一つで、節分に似た悪鬼や疫病を祓う風習です。今回は、この「ついな」の意味や由来、そして節分との違いなどもあわせてご紹介します。

目次

  1. 「ついな」とは?
  2. 「ついな」の由来
  3. 平安時代の「ついな」
  4. 「ついな(追儺)」の変遷
  5. 現代の「ついな(追儺)」の様子
  6. 「ついな」と「節分」

「ついな」とは?

「ついな(追儺)」の意味

「ついな(追儺)」とは、大晦日に行われる宮中の年中行事の一つで、悪鬼や疫病を追い払うために行います「鬼やらい」、「なやらい」、「大儺 (たいだ) 」、「駆儺 (くだ) 」とも言われます。

「ついな」の由来

「追儺(ついな)」の由来となったのは、中国の「大儺(たいな)」という儀式で、日本へは陰陽道の行事として取り入れられました。

文武天皇(もんむてんのう)の頃に伝わったと言われており、706年に疫病の大流行により多数の死者が出たため、文武天皇が「大儺(おおやらい)」を行ったという記録が残っています。

大儺とは

中国の「大儺」は、宮中で皇帝らの前で、新年(立春)の前日である大晦日に行われていた儀式です。

方相氏と多くの侲子たちによって疫鬼や魑魅魍魎を恐れさせる内容の舞を行った後、疫鬼たちを内裏の門から追い出して都の外へと追い払うのがこの儀式の流れです。

方相氏は4つの目が付いた四角い面を被り、右手に戈(ほこ)、左手に大きな楯を持って熊の毛皮を纏っていました。

方相氏の姿は、妖怪画集として有名な鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』にも描かれています。また、侲子は、黒い衣服を着た子供たちが務めました。

【用語】

  • 方相氏(ほうそうし)…魔や鬼を払う為に出てくる神様、またはその神様に扮装する役目の人
  • 侲子(しんし)…方相氏に従う童子
  • 疫鬼(えきき)…中国に伝わる疫病を引き起こす鬼神、妖怪
  • 魑魅魍魎(ちみもうりょう)…さまざまな化け物

平安時代の「ついな」

平安時代の法令集『延喜式(えんぎしき)』などによると、毎年大晦日(おおみそか)の夜に宮中で行われていた「ついな(追儺)」は、下のような手順で行われていました。

  1. 戌の刻(午後8時頃)、天皇が紫辰殿に出御し、陰陽師が祭文を読み上げる。
  2. 「侲子」に扮した者を20人ほど従えた、鬼祓い役の「方相氏」が登場する。
  3. 方相氏が宮中を歩き回り、目に見えない疫鬼を内裏の4つの門から追い出す。
  4. 殿上人たちが儺人(なじん)役として、桃の弓と葦の矢を持って方相氏の後に続く

「ついな」の様子

方相氏は、黄金の四つ目の面を付け、黒い衣と朱色の裳を着て、戈と楯を持ちます。そして、宮中を回るときは、「鬼やらい、鬼やらい」と大声で唱えながら戈で地面を打ち鳴らすのです。また、方相氏は、大舎人の中から体の大きな人が選ばれていました。

古来、桃や葦には邪気を払う力があるとされていたので、殿上人が持つ桃の弓と葦の矢にも邪気を払う意味がありました。「ついな(追儺)」の様子は、枕草子や源氏物語にも記されています。

【用語】

  • 裳(も)…十二単のパーツの一部で帯と袴のようなもの
  • 大舎人(おおとねり)…宮中で供奉などを司った下級官人
  • 殿上人(てんじょうびと)…令制で官職が三位以上か、四位、五位のうちで昇殿を許された者

「ついな(追儺)」の変遷

「ついな」の変遷

平安時代には、年代が進むにつれて、目に見えない疫鬼たちに対して向けられていた桃の弓と葦の矢を、方相氏や侲子たちに向けるという描写が見られるようになります。方相氏が追う立場から追われる立場になったのは何故でしょうか?

方相氏の役割

方相氏の役割の変化については諸説あり、また様々な要因が含まれますが、その一つには、平安初期の触穢思想(しょくえしそう)と関係があると見られています。「触穢」とは、「死や出産や月経などのケガレに触れること」を指します。

方相氏には、「ついな(追儺)」で鬼を祓う以外にも、親王や大臣の葬礼において、邪悪なものを祓う神として葬列を先導する役割がありましたが、方相氏の存在は途中で記録に登場しなくなります。

これは、ケガレを忌避する傾向が強まるにつれ、「方相氏=死のケガレに一番近い存在」として忌避されるようになったためとみられています。

方相氏は追う立場から追われる立場に

また「ついな(追儺)」は、6月と12月の晦日に行われる諸人の罪やけがれを祓う浄めの儀式である「大祓(おおはらえ)」の観念と結び付いたと考えられています。「ついな=疫鬼のケガレを祓う儀式」となった時、「方相氏=目に見えるケガレ」として追われる立場に変化したのでしょう。

そして方相氏は、「ついな(追儺)」以外の様々な民俗にも影響を与え、祭りや芸能に鬼形の者として登場するようになりました。

単なる邪悪な者というだけでなく、ケガレの象徴として追われる、祭礼行列を先導する、子供を諌める、など多様な性格を持つ日本の「鬼」のキャラクター性は、方相氏の影響を強く受けていると言えます。

現代の「ついな(追儺)」の様子

現代においても「ついな(追儺)」は行われていますが、旧暦の大晦日が2月の節分と近いことから、節分行事として「ついな(追儺)」を行うことも多いようです。

晴明神社では、毎年、節分祭において「ついな(追儺)」が執り行われます。こちらの「ついな(追儺)」では、神職の方が儺人役を務め、「陰陽」と叫びながら四方に矢を放ちます。

また、平安神宮では、平安時代の宮中で行われていた年中行事「追儺式」を再現した儀式、「大儺之儀(だいなのぎ)」が節分行事として執り行われます。この「大儺之儀」は、時代考証によって、式、作法、祭具、衣裳などがに綿密に再現されているそうです。

「ついな」と「節分」

「節分」とは?

節分(せつぶん/せちぶん)は、春分、夏至、秋分、冬至の各季節を区切る節気の前日のことで、「季節を分ける」という意味もあります。

一般に「節分」は、「豆まき」行事を行う春の節分を指す言葉です。邪気を追い払うために古くから行われている「豆まき」行事は地方色豊かで、いろいろな作法があります。

一般に、「豆まき」には次のような意味があります。

  • 「穀物には生命力と魔除けの呪力が備わっている」と信じられていた
  • 「豆」→「魔目(まめ)」を鬼の目に投げつけて鬼を滅する→「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願う。

「ついな」と「節分」の関係

平安時代には「ついな(追儺)」と「節分」がそれぞれ行われていたという記録もあるので、「ついな→節分」と直接的に変化したのではありませんが、「疫鬼を祓う」という同じような役割を持ち、開催時期も旧暦の大晦日と春の節分と近かったため、相互に影響しあって今日の儀式の形になったと考えられています。


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