理性とは?
私たちが日常の中で「理性」というとき、それは「感情(感性)」の反対の意味として使われるケースが多いようです。一般的に「理性」と「感情」とは、人間の意識(心)の働きのうち、性質の異なる2つの大きな要素と考えられています。
理性とは、「物事を筋道だてて考える能力や性質」と定義することができます。これはどういうことでしょうか。例文を見てみましょう。
- 彼は思わず理性を失って同僚になぐりかかった。
- 彼女はあふれ出る感情を抑えきれずに取り乱していたが、やっとのことで理性を取り戻した。
上の例文の場合では、理性は感情や衝動を抑える役目を果たしています。感情が本能的な心のはたらきであるのに対して、理性は学習や教育によって身についたものです。感情の動きに左右されず、自分の行為がどんな結果を招くかを前もって推測したり、道理や社会倫理に照らして自分の言動を判断し、冷静に考えるはたらきが理性といえます。
理性と知性の違い
理性と似かよった言葉に「知性」があります。理性が「物事を筋道だてて考える能力や性質」であるのに対し、知性は「知識や経験をもとにして考える能力や性質」です。
わかりやすい表現でいうと「理性は知恵」・「知性は知識」に重きを置いて、人の心のはたらきを表したものといえるでしょう。とはいってもお互いに補い合う性質のものですから、ほぼ同様の意味表現として使われることもあります。両者の性質を合わせた「理知的」という言葉もありますね。
「理」とは何?
そもそも「理性」の「理」とは何でしょうか。物理、道理、理論、原理といった熟語に使われていますね。「理」という漢字は、もともと宝石の表面などに見られるスジ模様のことを表していました。この字に使われている「王」へんは宝石を表す「玉」のことです。
この宝石のスジ模様から転じて、「物事の筋目」を表すようになりました。つまり意識の使い方、ものの考え方に何かしらの一貫性があるということです。これに対して感情というのはそうした「筋道」といったものがなく、理屈抜きで突然発生したり、波のようにわーっと拡がったり押し寄せたりするイメージがあります。
西洋が経験した理性万能の時代
もともと日本には「理性」という言葉はありませんでした。明治時代に西洋の諸学問が一斉に日本に入ってきたときに、哲学者の西周(にしあまね)が「reason」の訳語として造り出したとされています。
つまり「理性」には、(中国や)日本にはなかった西洋特有の概念が含まれているということです。それは「大自然や神」と相対する意味での、「人間の理性(論理思考能力)」という概念です。
西洋では、14世紀ころからルネサンスの時代を迎えます。キリスト教会という宗教的な権威から与えられた世界観を盲目的に受け入れて生きるのではなく、個人個人が理性を発揮して(=筋道を立てて自分の頭で物事を考え)、世界や宇宙を理解したり、社会をつくっていこうという自覚が芽生えていきました。
新たな文化への探求心とともに、自然科学や社会科学、他の諸学問が発展し、民衆の社会参加が進み、文明が急速に近代化していきました。人間の理性は無限の可能性をもつとも考えられるようになりました。
理性には限界がある?
しかし、やがてそうした理性万能の考え方に疑問を投げかける動きも出てきます。たとえば、18世紀のドイツ哲学の巨人・カントは著書『純粋理性批判』で、「従来型の理性では、世界のすべてを認識することはできない」として理性の限界を論理的に示し、それ以降の哲学・思想に非常に大きな影響を与えました。
また20世紀にはいると、物理学では「粒子の運動を、人が正確に予測することは原理的にできない」ことを示した量子力学の出現、数学では「数学は完全ではない」ことを数学的に証明した不完全性定理など、それまでの人間理性への信奉を根底からくつがえすような発見や証明がなされました。
理性のまとめ
いかがでしょうか。理性には実はさまざまな定義があります。日常的に使われる理性は「冷静な判断力」とも言いかえられます。広い意味では「論理の通った思考のあり方」と考えればよいでしょう。
社会生活を豊かに円滑に送るために理性は不可欠。でも「理性」だけではこの世界のすべてを理解することはできない、ということもまた、私たちの住む世界の本質を表しているような気がしますね。