「武士は食わねど高楊枝」とは
「武士は食わねど高楊枝(たかようじ)」とは、「武士が清貧(せいひん)に甘んじること」「気位(きぐらい)の高いことのたとえ」という意味のことわざです。
「清貧」とは、「行いが潔白で、あえて富を求めず貧しさに安んじていること」という意味の言葉です。また、「気位」とは「自分の品位を保とうとする心の持ち方」のことです。
「武士は食わねど高楊枝」の語源は、「当時の武士のあるべき姿勢」からきています。武士はたとえ貧乏で食えなくても、満腹を装ってゆうゆうと楊枝を使うべきだ、という考えだったのです。
もともと「高楊枝」という言葉には、「食後にゆったりとつまようじを使うこと」の意味があります。皆さんも、満腹になった後、シーハーとつまようじを使ったことがあるのではないでしょうか(あまり人前で堂々とする行為ではありませんが)。
武士の食生活について
現代では一日三食が当たり前ですが、当時の武士は二食しか食べられないことも多くありました。それに、献立の栄養バランスも良くありませんでした。例えば、お茶漬けや豆腐だけといった食事です。
武士にも階級があり、特に下級の武士は、魚も滅多に食べることができませんでした。収入で手に入る食料だけではとても足りないので、自分で畑を持って野菜を育てることもしていました。
このような食生活でしたが、武士は「耐え忍び、愚痴を言わない」ことが美徳とされていましたので、我慢していたのかもしれません。お茶漬けしか食べられなくても、満腹のふりをして「高楊枝」する武士の姿が目に浮かぶのではないでしょうか。
「武士は食わねど高楊枝」の使い方
現代の日常生活では、「武士は食わねど高楊枝」はどのように使えば良いのでしょうか。例文を使って考えてみましょう。
- 武士は食わねど高楊枝というが、彼の態度はやせ我慢としか思えない。
- 武士は食わねど高楊枝で金欠を隠し、彼女にたくさん奢ってしまった。
- 何があっても武士は食わねど高楊枝の精神で、弱いところは見せない。
1と2の例文は、「見栄っ張り」な様子を表していることがわかります。どちらかというと悪い意味になります。しかし、3の例文は、弱みを見せないぞという我慢強さを表しています。「武士は食わねど高楊枝」は、使う場面によって良くも悪くも取れる言葉です。
「武士は食わねど高楊枝」の類義語
- 鷹は飢えても穂を摘まず(たかはうえても・ほをつまず)
鷹は穀類を食わない習性があることから、「高潔な者はどんなに困っても不正な金品は受け取らない」という意味を表します。
- 渇すれども盗泉の水を飲まず(かっすれども・とうせんのみずをのまず)
孔子(こうし:中国の学者)はとても喉が渇いていました。泉の前を通りかかりましたが、その泉が「盗泉」という名前だということを嫌い、水を飲みませんでした。このことから、「どんなに苦しい中でも不正をしない」という意味を表します。
「武士」を使ったことわざ
- 武士に二言はない
- 武士は相見を互い(あいみをたがい)
このように、「武士」はまっすぐで誠実な人柄を表していることがわかります。現代の日本人の美徳に通じているのではないでしょうか。
「武士は食わねど高楊枝」のまとめ
皆さんも、本当は困っているのに、強がって格好つけたことがあるのではないでしょうか。自分の弱みを見せるのは恥ずかしい、という気持ちもあるのかもしれません。
しかし、「武士は食わねど高楊枝」で強くあろうとした武士たちも、本当は無理をしていたのかもしれません。体裁を気にして、愚痴や文句を言えなかったのではないでしょうか。「武士は食わねど高楊枝」は、ほどほどに心がけるのが良いかもしれませんね。