「実るほど頭を垂れる稲穂かな」の意味
「実るほど頭(こうべ)を垂(た)れる稲穂かな」とは、学べば学ぶほど、経験を積めば積むほど謙虚になっていく人を表した言葉です。
稲穂とは普段食べているお米がとれる稲の穂です。稲は生長するにしたがって、棒状の茎を上に向かって伸ばしていきます。しかしその先端にお米が結実し、穂になるとその重さから先端がUの字を描いて下に下がります。傘の持ち手やフック状の杖のような形です。
稲穂を頭に見立て、稲を人間ととらえましょう。すると、まだ成長途中の人は上だけを見て伸びていく。一方成果が実になった、中身のある人は頭を下げている。
つまり「実るほど頭を垂れる稲穂かな」は、尊大な態度の人はまだ成長していない小人物で、経験を積んで深く学んだ人はおのずと謙虚になるという意味のことわざなのです。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」の使い方
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」は主に座右の銘や信条として用いられます。会話文で使われることは多くはありませんが、ほめ言葉として使うことがあります。裏の意味で思い上がった人や傲慢な人を批判する使い方もまれにあります。
例文
- 明日から役職が付くことになった。けれど思い上がることなく、実るほど頭を垂れる稲穂かなをモットーに頑張るとしよう。
- 社長は非常に謙虚な人として有名だ。実るほど頭を垂れる稲穂かなという言葉が服を着て歩いているようだ。
- 社長に引きかえ、社長の子供は傲慢な人だ。実るほど頭を垂れる稲穂かなとは言うけれど、彼は実らない稲穂かな。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」の類義語
人間は実が入れば仰向く、菩薩は実が入れば俯く
「人間は実が入れば仰向く、菩薩(ぼさつ)は実が入れば俯く」とは、人間は豊かになれば尊大になるけれど、お米は中身が詰まると下を向くという意味です。
ここで使われている「実」は、お金や物品を指しています。家の中にものやお金がたくさん入っている人とは、お金持ちのことです。
また、「菩薩」は弥勒菩薩や勢至菩薩ではなく、お米を指しているそう。菩薩という言葉自体にはお米という意味はないので、一種の比喩表現とみなせるでしょう。
能ある鷹は爪を隠す
「能ある鷹(たか)は爪を隠す」とは能力のある人は力をひけらかさないという意味のことわざです。「能」であって「脳」ではありません。
いつも爪をむき出しにして周りを警戒させていては狩りがうまくいきません。爪を隠しておいて、いざという時にだけ出した方が不意打ちで狩りがうまくいくでしょう。
「上手の猫は爪を隠す」や「鳴かない猫は鼠捕る」と同じ意味です。対になることわざは「浅瀬に高波」や「空樽は音が高い」などです。
賢者の口は心にあるが、愚者の心は口にある
「賢者の口は心にあるが、愚者の心は口にある」とはベンジャミン・フランクリンの言葉です。愚か者は思ったことをすぐ口に出すけれど、賢い人は思っていることを口に出さないことを表現した言葉です。
賢い人が能力を隠すという点では、「大智如愚」や「和光同塵」も同じです。前者は賢い人は知識をひけらかさないので一見愚かに見える、後者は才能を隠して世間に合わせるという意味です。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」の英語訳
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」を英語に訳すと、「The boughs that bear most hang lowest.」となります。
「bough」は大きな枝です。「bear」はこの場合は実がなるという意味なので、「The boughs that bear most」は一番実が多い枝となります。
「hang」はぶら下がることに使います。ハンガーでおなじみですね。つなげると、一番実が多い枝は一番下にぶら下がる、となります。