「只管」の読み方・意味
読み方
「只管」という字は、<ひたすら>と読みます。
「只」や「管」の字には本来「ひた」「すら」のような読み方はないため、知らないと読めないという意味においては難読語にあたるかもしれません。「ただかん」や「ただくだ」ではありませんのでご注意ください。
なぜこのような読み方をするかについては、「語源」の項をご参照ください。
意味
「只管」の基本的な意味は、「ただそればかり」「ひとむき」「いちず」「切(せつ)に」です。
上記に加えて、「只管」には「程度が完全であるさま」「すっかり、まったく」という意味もあるのですが、現代語の中にはほとんど登場しません。そのためこの記事では、マーカーを引いた上記の意味に絞って解説を行います。
異なる漢字表記
「ひたすら」は、「只管」の他にも「一向」や「頓」の字を当てることがあります。
「只管」の使い方
「只管」は副詞ですので、必ず動詞をともない、その動作を時間的・心理的な観点で「ずっとやっている」「一心に継続している」と言い表すために使います。
例えば、入試を間近に控えた受験生は「只管勉強する」でしょうし、その親は「ただ只管、息子・娘の合格を願う」ことでしょう。
人間の身体はひとつですし、ごく一部の天才を除き、人間の頭脳は複数の物事を同時には追いきれません。そうした観点では、誰にでも「只管に何かをした」経験はあるのではないでしょうか。
例文
- 家を出たあと、彼は只管西に向かって車を走らせた。
- 若いころはお金がなくて、只管仕事に明け暮れていました。
- 約束した時刻に彼女は現れず、私は喫茶店の片隅で只管待たされ続けた。
- 子どもの頃の経験からか、彼女は只管に犬が怖いようだった。
基本はひらがな表記でOK
「ひたすら」という言葉やその意味は一般に広く知られていますが、「只管」という表記はあまり普及していません。現代において用法がみられるのは、やや堅めの文学作品の描写などに限られます。
また、公文書等では「副詞はひらがな表記する」というルールがあることも踏まえて、特別な理由がない限りは「只管」ではなく「ひたすら」と書いたほうが相手にとっても親切です。
「只管」の語源
「ひたすら」という言葉に、なぜ「只管」という字を当てるのでしょうか。一説には、漢語の「只管」(シカン:ただそのことばかりに心を用いること)を日本語に翻訳した際に「ひたすら」になったと考えられています。
「ひた」は「直向き(ひたむき)」「直隠し(ひたかくし)」などのように「直」の字に通じる言葉であり、さらにその本源は「一(ヒト)」です。一方の「すら」は、何かが極端であることを意味する助詞という説が有力です(例:食べ物すらない)。
すなわち、「ひたすら」は「直すら」や「一すら」という書き方になるかもしれなかったわけですが、なぜ「只管」の字がそのまま使われたのでしょうか。それは、「只管打坐」という四字熟語に原因があるようです。
「只管打坐」
「只管打坐」(しかんたざ)とは、禅宗の修行法のひとつで「他のことに囚われず、ひたすらに坐禅(ざぜん)をすること」という意味の言葉です。
「只管打坐」においては、悟りという目的すら持ちません。坐禅の理由すらも問いません。「ただ坐禅をする」のです。ここから、坐禅以外でも「無我の境地でひとつのことに精神を集中する」という意味でも「只管打坐」が用いられました。
人間の動作・精神に関わる重要な意味を持つこうした熟語は、「ひたすら」と日本語訳して翻訳完了…とはならず、少なからず原語の影響が残留するもの。そこで、「只管打坐」から「只管」の字を借りて「ひたすら」と読むようになったと考えられます。
「只管」という字にも注目
漢語の「只管」(シカン)が日本語で「ひたすら」になったと解説しましたが、では、そもそも「只管」という字にはどういう意味があるのでしょうか。
「只」は「ただ、それだけ」という意味です。皆さんも家に帰った際に「ただいま」と挨拶するでしょう。これは「只今」、すなわち「今、ここにいるだけの自分(を感じる、がある)」という意味なのです。
「管」は、細長い形の中空の構造物のことですから、「只管」と書くと、まっすぐに伸びた(中身が入っていない)構造、ただそれだけ…という字義が見えてきます。
「只管何かをする」ということは、その何もない管の中をまっすぐ進むこと、と解釈することもできそうですね。