「貪欲」の意味とイメージ
貪欲(どんよく)。書き下し文にすると「欲を貪(むさぼ)る」。物欲や金銭欲に限らず、食欲、肉欲、出世欲に名誉欲……あらゆるものを人並み外れて欲しがります。欲深いそのさまは、まるで食べれば食べるほどますます胃袋が肥大していくかのよう。……と、そこまで極端ではないにせよ、何かを際限なく欲しがるさまが「貪欲」です。
ある意味ではたいへん人間らしいともいえます。まったく欲のない人はおそらくいないでしょう。しかし度を超えると問題で、周りからもけっしていい目では見られません。昔話や寓話でも、貪欲な者はたいてい悪役として登場し、最後には痛い目に遭います。はるか昔から私たちは、貪欲を「悪」と見なす道徳を身近に感じてきました。
「貪欲」の類語、対義語
貪欲の類義語は「強欲」「貪婪(どんらん)」「業突く張り」など、欲深さを表す言葉は数多くあります。また、対義語としては、「無欲」「恬淡(てんたん)」などが欲がなくあっさりしているさまを表します。
漢字「貪」の成り立ち
貪欲の「貪」という字は、音読みで「ドン」「タン」「トン」、訓読みでは「むさぼ-る」。部首は「貝」で、貝の字は子安貝の形状を模しています。古代、子安貝は通貨(貝貨)として重要な価値を持つものでした。「貨」「貸」「財」「費」「買」のように、貝の字がお金にまつわる漢字に多く使われているのはそのためです。
「貝」の上にのった「今」の字は、覆いかぶさって必死に金銭を守ろうとしている様子の象形です。一方、「貝」を「分」けると「貧」しくなりますので、よく似た漢字ですが取り違えないよう注意してください。
宗教に見る「貪欲」
貪欲を悪と見なす道徳の大本は、仏教、あるいはキリスト教の教義にも見出すことができます。古(いにしえ)より、人間の貪欲がどのような扱いをされてきたか、ここで簡単にご紹介しましょう。
仏教用語の「貪欲」
仏教では、苦しみは煩悩から生じるとされます。怒りや欲望や慢心、他者への憎悪、正しく学ぼうとしないこと、妄(みだ)りに疑うこと、憂鬱に打ち沈んだ状態から脱しようとしないこと……これらのひとつひとつが煩悩であり、気を迷わせ、心身に悪影響を及ぼし、真理から遠ざけるというのです。大晦日に108の鐘を撞くのは、108の煩悩を祓って良い年を迎えようという願いからです。
数ある煩悩のなかで、人の苦しみ、諸悪の根源とされる特に重大な三つを「三毒」と呼びます。それが「貪 (とん)」「瞋 (しん)」「癡 (ち)」 であり、この「貪」こそが今回のテーマである「貪欲」のことです。貪欲はそのぐらい人間にとって「毒」だと見做されているのです。ちなみに残りの二つ、「瞋 」は瞋恚(しんい)で他者への「怒り」。「瞋恚の炎を燃やす」といった文学的な表現にもなっています。「癡 」は真理に対する無知です。
キリスト教用語の「貪欲」
一方、キリスト教にも仏教の「煩悩」とよく似た概念があり、「傲慢」「貪欲 」「嫉妬」「憤怒 」「淫欲」「暴食」「怠惰」を厳に戒めるべき「七つの大罪」としています。ここでもまた「貪欲」が挙げられています。尽きることのない度し難い欲望という意味では、「淫欲」「暴食」も貪欲の一種といえるかもしれません。
その時までの私は、神と縁のない、およそ惨めな、
貪欲の塊のような魂だったのだ。
だからいまここで、君も見る通り、懲罰を受けている。
貪欲の仕業がいかなるものかは、悔悛した人々が
ここで罪を清めるさまを見ればよくわかるが、
これほど苦く苦しい罰はこの山にはほかにないだろう。
(後略)
ダンテ『神曲 煉獄篇』(平川祐弘訳・河出文庫)
かの有名な大著、ダンテの『神曲』の一場面です。古代ローマの大詩人ウェルギリウスに導かれて地獄を下ってゆくダンテは、続く煉獄の山で、生前に貪欲の罪を負った人の姿を見ます。煉獄で「苦く苦しい罰」を受け、清められたのち、ようやく彼は天国に行けるのです。
「貪欲」の現代的用法
さて、前節では「貪欲」と宗教の関わりについてお伝えしました。ずいぶんと重苦しい内容でしたが、日ごろ私たちは、そこまで深いことは考えずに「貪欲」という言葉を口にしています。当然、負のイメージを伴った使い方をされる一方で、反対に、むしろポジティブな意味合いで「貪欲」という言葉が使われることも多いため、最後にご紹介して締めくくりとします。
・知的好奇心に貪欲な人
・貪欲な学習が実を結ぶ
・目標を達成するためもっと貪欲に頑張ろう
ここでの「貪欲」は、意地汚い、他人のことを考えない、恥ずべき我利私欲ではなく、熱意や努力の意味で用いられていることがわかります。たいへん古い言葉である罪深い「貪欲」も、現代では、時には180度価値観を転換して人々の口にのぼっているのですね。言葉というのは面白いものです。