「煩悩」とは?
「煩悩(ぼんのう)」は、「煩(わずら)わす」と「悩ます」という2つの語が連なった言葉で、人の心の安寧をさまたげ、苦しめるものを意味します。とくに仏教の世界で用いられる言葉ですが、一般的に、
「煩悩にとりつかれて堕落したお坊さん」
「煩悩を断ち切ることはむずかしい」
などという表現で使われるときには、物質欲、金銭欲、名誉欲、情欲などといった、人を強力に惹きつける欲望を指します。
また、座禅や瞑想(メディテーションやマインドフルネスとも)に取り組み、心を無にしようとしても、どうしてもわき出してくるさまざまな思い。そんな雑念や邪念も煩悩のひとつと言えるでしょう。
「煩悩」は解脱(げだつ)の敵
釈迦は「この世は『苦』である」と看破しました。かれが開いた仏教の究極の目的は、苦の世界から脱出して完全に自由な境地に至ること、すなわち「解脱(げだつ)」です。修行の末、首尾よく解脱できた者は仏陀と呼ばれています。
ところが、人が解脱するのは簡単なことではありません。解脱を妨げる「煩悩」がたくさんあるからです。自由になりたくても足を引っ張る存在がたくさんあるということです。煩悩の種類は細かく数えあげると、除夜の鐘つきの回数ともなっている108つあるという解釈がポピュラーですが、その他教派によってさまざまで、なかには1000以上と数える場合もあります。
「煩悩」の本質は?
数多い煩悩を細かく分類してもかえって分かりづらくなりそうですから、その本質を見ていきましょう。
煩悩をつくりだしているものは、ズバリ「三毒」です。三毒とは、
・「貪欲(とんよく)」=むさぼる心。欲望のこと。
・「瞋恚(しんに)」=怒りの心。
・「愚癡(ぐち)」=真理に対して無知であること。
煩悩の種類は多けれど、それらはこの3つの毒が根源となっているということですね。「愚癡」は「無明(むみょう)」とも呼ばれ、最も強い毒ともされています。欲望や怒りの念がわき出て心を苦しめるのも、この世界の仕組みがどうなっているのか、その真実を知らず、また知ろうともしないからというわけです。
「煩悩」は苦しみの世界をつくる
煩悩とは、欲望、怒り、無知の3つの毒から生まれることがわかりました。これらの毒が人の苦しみの源泉となっているのです。では、その苦の世界とはどのような世界なのでしょうか。
仏教ではそれを六道(りくどう)と呼んでいます。
六道(りくどう)とは
六道は、「地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅(しゅら)道・人間道・天道」の6つをさします。人間は生死を繰り返しながらこの6つの世界をぐるぐる巡っていると仏教では教えています。これらが全体として苦しみの世界を形づくっているのです。
最後の天道は天国のような安逸を味わえる世界ですが、物事の理を悟っていないために、やがてまた地獄道のような厳しい世界に落ちていく運命にあります。したがってこれもまた苦のサイクルの中に入っています。
解脱を妨げるもの…それが煩悩
真に自由で至福の境地が味わえるというのが解脱。ところが解脱できずに六道の苦しみのループから抜け出せないのは、煩悩があるためです。つまり先ほどあげた、欲望、怒り、無知の3つの毒のために苦しみの世界に閉じこめられてしまっているということです。
分かりやすくいえば、人は真の幸福をつかみたい、心底から安らいだ境地を得たいという大目的に向かってまっすぐ進んでいきたいのに、煩悩という目先の欲や感情の揺らぎに翻弄され、あるいはこの世の真実を悟ろうとする努力を怠っているため、つい迷いの脇道に入りこんでしまい、その結果苦しみの連鎖を繰り返し味わうはめに陥っている、ということですね。
「煩悩」のまとめ
いかがでしょうか。煩悩は苦の世界をつくり出し、人を真の幸福から遠ざけるものといえます。しかし現実の社会や自分自身の日常生活を省みると、煩悩を完全になくすということはたいへんむずかしいように思われます。
一方で、仏教の教派にもよりますが、無理をして煩悩を断とうとすることも執着の一つとなり苦しみの原因になるとして、煩悩も含めた悟りを求める「煩悩即菩提」という考え方も広まっています。
真の幸福をつかむという理想は見失わずに、やっかいな煩悩とも上手に付き合っていく。それが現代に生きる私たちにとって賢明な人生の送り方なのかもしれませんね。