「勝てば官軍」とは
「かてばかんぐん」と読みます。これは、「勝てば官軍負ければ賊軍(かてばかんぐんまければぞくぐん)」ということわざを省略したもので、江戸時代末期の明治維新における政権や情勢の目まぐるしい変化と、それに伴う激しい内戦の様子を庶民が詠った狂歌「勝てば官軍 敗ければ賊よ 命惜むな 國のため」が基になっています。
「官軍」とは、日本では朝廷(天皇)のお墨付きのある軍のことを「官軍」と言います。「賊軍」はその反対で、朝廷(天皇)の意にそぐわない反乱軍のことを指します。朝廷の敵という意味で「朝敵(ちょうてき)」「逆賊(ぎゃくぞく)」と呼ばれることもあり、武士(軍人)にとっては屈辱的な立場でした。
「勝てば官軍」の意味
「勝てば官軍」とは、道理や大義名分の善し悪しに関わらず勝負に勝った方が正義となることの例えです。勝者と敗者のどちらにも道理があっても、結局は勝ったほうが正義となり、負けたほうが悪となってしまう無常観を表現している言葉です。
また、勝者が勝負の過程においてどんなに姑息で卑怯な方法をとろうとも、最終的に勝ってしまえば勝者こそが正義となるので、皮肉を込めて卑怯な方法で勝ちを得た者を揶揄する言葉として使われることもあります。さらに、勝利の過程でおこなわれた不正などの悪行が、勝ってしまうと問題にされずに無かったことになることも言います。
「勝てば官軍」の歴史的背景
江戸時代の政治の実権は徳川幕府が握っていましたが、形式的には幕府が天皇から統治権を預かっているという形を取っていました。よって、初め徳川幕府の軍隊は天皇が認めた軍隊、「官軍」でした。
江戸時代末期、幕府は黒船来航に象徴される外国からの鎖国解除の圧力に耐えきれなくなると、天皇の意志に反して開国してしまいます。すると、幕府に対する不満が高まり、その勢いを抑えきれなくなった徳川幕府15代将軍・徳川慶喜は、政権を天皇に返還する「大政奉還」をおこないます。
しかし、その頃の朝廷には外国との交渉や国を治める力がなかったので、天皇はその後も徳川慶喜に期限付きで将軍職を継続するよう命じました。ところが、慶喜が大政奉還後も政権の実権を握ることに反発する討幕派(新政府)と、そもそも大政奉還に納得していない旧幕府勢力の間で争いがおこります。
この時、新政府軍は朝廷にすべての権限を集約する「王政復古」の名のもとに、天皇の軍の象徴である錦の御旗を掲げて戦いました。このことで、新政府軍は一気に「官軍」となり、それまで「官軍」であったはずの旧幕府軍はあっという間に「賊軍」となってしまいました。
最終的には「箱館戦争」で、最後まで旧幕府軍として戦った土方歳三の戦死と、榎本武揚の降伏によって一連の旧徳川幕府軍と新政府軍との戦いは新政府軍の勝利で終わり、初めは「賊軍」であった新政府軍が「官軍」となり、新しい時代を作っていくことになります。
この、状況次第で「官軍」と「賊軍」が入れ替わってしまう激動の時代から「勝てば官軍負ければ賊軍」という言葉が生まれたのです。
「勝てば官軍」の使い方
「勝てば官軍」の使い方を、例文を通して見てみましょう。
「勝てば官軍」の例文
1.決勝点は敵のオウンゴールだったが、「勝てば官軍」で、優勝チームはその勝利を称賛された。
2.社長の座を奪い合う派閥争いの後で、「勝てば官軍負ければ賊軍」の人事がおこなわれた。
3.戦時下の非人道的行為について、敗戦国は厳しく断罪されるが、戦勝国のそれは不問に伏される様は、まさに「勝てば官軍」である。
例文からは、物事は勝敗によって善悪正邪が決まるということを、「勝てば官軍」という言葉が象徴していることがわかります。
「勝てば官軍」のまとめ
いかがでしたでしょうか。「勝てば官軍」の意味をおわかりいただけましたか?「勝てば官軍」は、決して誉め言葉ではありません。もし、勝利を収めても「勝てば官軍」と言われているうちは、誰もが納得できる勝ちではないのかもしれませんね。