「雲泥の差」とは
「雲泥の差」とはとても大きな差があることです。大きな隔たりがある、まったくもって異なるなど量的・質的に甚だしい違いがあるという意味です。
「雲泥の差」とは雲と泥との距離のことです。雲は空高くに浮かんでいます。そして泥は地べたや沼の底に沈んでいます。つまり、「雲泥の差」とは大空と大地の距離ほどにかけ離れているという意味なのです。
「雲泥の差」の意味と使い方
「雲泥の差」は次のような意味で使われます。色々な意味がありますが、現在では優劣の差が開いていることに関して使われることが多い言葉です。どちらか一方が劣っているという意味が強いので、誤解を招く場面では使用を控えた方が良いでしょう。
- 大きな差がある。
- 正反対である。
- 比較にもならない。
- ずばぬけている。
例文
- お隣の娘さんは勉強と部活を両立した上で家事も手伝ってくれているみたい。何にもしないうちの息子とは雲泥の差だわ。
- 片や新進気鋭の研究者、片やリストラされたサラリーマン。雲泥の差とはこのことだ。
- ほんの少しの手間や気遣いを惜しんではいけないよ。後々にそれが雲泥の差になるんだから。
「雲泥の差」と「月とすっぽん」「提灯に釣り鐘」の比較
月とすっぽん
「月とすっぽん」とは大きな違いのある二つのもののことをたとえることわざです。すっぽんとは亀の一種です。手足を引っ込めたすっぽんも月も丸い形をしています。しかし、その大きさは全く異なります。ここから、大きな違いがあることのたとえとして使われています。
「月とすっぽん」と「雲泥の差」は共通点の有無で使い分けがされています。「月とすっぽん」は共通点はあるけれど大きな違いがあるという意味で使われます。一方「雲泥の差」は似通ったところさえない程にかけ離れていることのたとえです。
また、優れたものと劣っているもののどちらを話題にしているかで使い分けることもあります。「雲泥の差」はずば抜けているという意味があるように、優れたものを重んじた表現です。対して「月とすっぽん」は劣っている方を意識した言葉といえます。
提灯と釣り鐘
「提灯(ちょうちん)に釣鐘(つりがね)」とは似ている物だけれど違いがありすぎるて比較にならないという意味です。提灯は辺りを明るくする道具です。時代劇やお祭りでお馴染みですね。釣鐘はお寺につるされている大きな鐘です。除夜の鐘が一番身近でしょうか。
提灯も釣鐘も吊り下げて使用するという点では同じです。また、形も似ています。しかし、その重さには大きな違いがあります。提灯は和紙や竹で作られていますが、釣鐘は金属製です。ここから違いがありすぎてつり合いが取れない、比較できないという意味で使われています。
このように「提灯に釣鐘」はバランスや均衡という観点から違いを評する言葉です。この点、「雲泥の差」や「月とすっぽん」とは使用範囲の異なる言葉です。かつては婚姻に関して使われていましたが、今では様々な事柄に使用されます。
「雲泥の差」の類語
「雲泥の差」のように大きな違いを表す言葉はいくつもあります。主なものを挙げますが、「月とすっぽん」や「提灯に釣鐘」ほどは使われません。
- 雪と墨(ゆきとすみ):正反対、あるいは大きな違いがある。
- 鯨と鰯(くじらといわし):大きな差があること。
- 雲泥万里(うんでいばんり):「雲泥の差」の四字熟語版。
- 天地雲泥(てんちうんでい):同じく、「雲泥の差」の四字熟語版。
- 霄壌の差(しょうじょうのさ):霄は空、壌は大地。「雲泥の差」と同じ意味。
「雲泥の差」の由来
「雲泥の差」の由来は中国唐代の詩人、白居易(はくきょい)の詩です。『傷友(ともをいたむ)』という詩の中に「昔年洛陽社 貧賤相提擕 今日長安道 對面隔雲泥」という表現があります。
詩の内容は次のような意味です。かつて洛陽にいたころには貧しいながらも助け合っていた。けれど今、長安ですれ違っても振り返りもしない。雲と泥くらいの隔たりを感じてしまう。
現在の二人は境遇の違いや心の距離が大きくなってしまっています。その隔たりは大空と大地にさえも匹敵するのでしょう。この時点では優劣というニュアンスはなかったようです。