「悲しいかな」とは
「悲しいかな」は、「残念なことだけど。悲しいことだが」ということを表現する言葉で、背景に「悔しさ。悲しさ。失意。痛ましさ」のようなニュアンスを持つ言葉です。
「かな(哉)」は、「~だなあ。~なことに」を表す詠嘆(えいたん:心に深く感じたことを言葉にすること)・感動の助詞です。この「かな」は、「悲しいかな」のほかに「悔(くや)しいかな」「惜(お)しいかな」などのように感情を表す言葉の語尾につけて使います。
「悲しいかな」は、それを感じさせる出来事や感情から少し距離を置いて客観的な視点で感情を表現するところに、「悲しい」という直接的な「悲しみ」の表現との違いがあります。
「悲しいかな」の使い方
- 本好きの僕は寝食を忘れて読書をするが、それでも悲しいかな、おなかも空くし、眠たくもなる。
- 憧れの女性と結ばれ、仕事でも成功した素晴らしい人生だったが、悲しいかな夢だった。
- 過去の歴史を振り返ると、悲しいかな人間社会は争いの繰り返しだ。
- 彼女が軽いジョークのつもりで言った言葉が、悲しいかな彼の心に深く突き刺さった。
- 出世街道を突き進んでいた兄が、悲しいかな社内の派閥闘争で敗北し、左遷されてしまった。
- 獲物の小鳥を追い詰めた猫はあと一歩のところで逃げられてしまった。悲しいかな猫は空を飛べない。
「悲しいかな」の類語
「無情にも」
「無情(むじょう)にも」は、「情けや思いやりがないこと」というニュアンスを表す表現で、後ろに否定語をつけて使われます。「悲しいかな」と同様に「悔しさ。悲しさ。失意。痛ましさ」のような背景があります。
【例文】
- 道に迷った彼は水を求めてさまよっていたが、無情にも空は晴れ渡り、恵みの雨を降らせてはくれなかった。
- マラソンのゴール目前で、無情にも足がけいれんして棄権せざるを得なかった。
「無慈悲にも」
「無慈悲(むじひ)にも」は、「慈悲の心がないこと。憐みの心がないこと」を表現する言葉です。この言葉の持つ背景も「悲しいかな」や「無情にも」と同様のものがあります。
「慈悲」は、仏教で「仏・菩薩(ぼさつ)が人々をあわれんで、楽しみを与え、苦しみを取り除くこと」を意味する言葉で、そこから「いつくしみ。あわれみの心」という意味で使われています。
【例文】
- 急病で病院に運ばれた家族のもとに一刻も早く駆け付けようとしたが、無慈悲にも乗ったタクシーが渋滞に巻き込まれた。
- 1989年にベルリンの壁が崩壊し、無慈悲にも引き離された家族が28年ぶりの再会に喜び抱き合った。
「悲しいかな」の対義語?
「悲しいかな」の対義語については、はっきりとしたものはないようですが、「悲しい」の対義語には「嬉(うれ)しい」という言葉があります。この「うれしい」という言葉を「うれしいかな」という表現で使っている文章がありますので紹介します。
こちらも、「かな」を語尾につけることで、詠嘆・感動の意味となり、深い喜びを表現しています。
「種田山頭火」の日記「其中日記」
種田山頭火(たねださんとうか)は、山口県生まれの俳人ですが、昭和7年頃、体調を崩し、俳友の援助で山口県小郡の「其中庵(ごちゅうあん)」という草庵に入って静養しながら、多くの句友と句会を開きます。その時に書いた日記が「其中日記」です。
また、種田山頭火は、子供のころに母親が自死し、その後、俳人として頭角を現したころに次弟が自死するなど、肉親の不幸を経験しています。下記の日記は、母親の祥月命日(しょうつきめいにち:亡くなった人が死んだ日と同じ月日のこと)の感慨を記した内容となっています。
雪、雪、寒い、寒い。
母の祥月命日、涙なしには母の事は考へられない。
終日独居。友はありがたいかな、私は親子肉縁のゆかりはうすいが、友のよしみはあつい、うれしいかな。