「世界のオザワ」とは
「世界のオザワ」とは、指揮者小澤征爾の異名です。若くして世界的コンテストで優勝を重ねて以来、世界を舞台に活躍し続けるこの指揮者にふさわしい呼称と言えましょう。
一般的な指揮者は、自国で名を成したのちに世界進出というステップを踏みます。ところが征爾は、日本で無名のまま渡仏、あっという間に世界的な成功をおさめてしまいます。
自国より世界での成功が先…のちに「世界のオザワ」と呼ばれる彼らしい、異例づくめのデビューです。その華々しい来歴を、以下にかいつまんでご紹介します。
世界進出以前の小澤征爾
征爾は小学生の頃からピアノに興味を示しましたが、その並々ならぬ才能に気づいたのは、兄たちでした。中学生になりピアニストを目指した征爾ですが、ラグビーで指を骨折、その夢は消えました。
とはいえ、そうでなければ指揮者「世界のオザワ」は誕生していません。挫折を成功に転じた、運命の怪我ともいえます。
高校生となった征爾は、親戚でもある音楽家・齋藤秀雄を訪ね、その指揮教室に弟子入りします。厳しい指導に耐え、のちに齋藤が教授を務める桐朋学園短期大学(桐朋学園の前身)に進学。短大卒業後は、様々な演奏会で指揮する経験を重ねながらも、海外で学びたい想いをつのらせました。
「世界のオザワ」へ
1959年、征爾はついにフランスへ渡ります。スクーターとギターを携え、貨物船での出航。型にはまらない天才らしい、破天荒なスタートです。
異国をスクーターで走りまわり、名だたるコンテストに次々と優勝し、世界的指揮者たちに見いだされてゆく過程は、まるで映画のようです。その日々は、ご本人によるエッセイ『ボクの音楽武者修行』(新潮文庫)で読むことができます。
当時のコンクールの実績
当時の征爾の主要な実績には、以下のようなものがあります。
- ブザンソン国際指揮者コンクール第一位
- カラヤン指揮者コンクール第一位
- バークシャー音楽祭クーセヴィツキー賞
世界的指揮者との出会い
征爾が出会った指揮者は、まぎれもない「巨匠」ばかりでした。ブザンソンでの審査員だったシャルル・ミッシュは、征爾を名門ボストン交響楽団主催の音楽祭に導きます。
それがきっかけとなり、レナード・バーンスタインとも出会い、彼が率いるニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者に就任。一時師事したヘルベルト・カラヤンとも、末永い交流が続きました。
ミュンシュ、カラヤン、バーンスタイン。短期間でこれだけの巨星たちに評価されたことは、実力ゆえとはいえ、本人も語っているように、強い運の持ち主でもありそうです。
快挙の栄誉
「世界のオザワ」が不動となったのは、誉れ高いウイーン・フィルハーモニー管弦楽団が毎年新年に開催する「ニューイヤー・コンサート」の、2002年度の指揮者に抜擢されたことでした。
60年の歴史あるコンサートにおける指揮は、日本人初の快挙でもあり、日本で世界で、小澤征爾の名声はますます大きなものとなったのです。
指揮・監督などで関わった海外の楽団
様々な名門楽団で指揮や音楽監督を務めてきた征爾ですが、ここでは常任として関わった主要なものを紹介します。
- トロント交響楽団(指揮者)
- サンフランシスコ交響楽団(音楽監督)
- ボストン交響楽団(音楽監督)
- ウイーン国立歌劇場(音楽監督)
ボストン交響楽団には、30年以上も在籍しました。これも、世界のオザワと称されるゆえんでしょう。
「世界のオザワ」の日本での活動
渡仏し、続けてコンクールに優勝した約二年後の1961年、征爾はNHK交響楽団と契約を結びました。しかし、枠にはまらない征爾と楽団員との摩擦は強まります。
N響からのボイコットなどをへて辞任となりましたが、この事件で、征爾は海外での活動にいっそう集中します。このことも、挫折を成功に転じたと考えれば、「世界のオザワ」誕生の背景のひとつといえるでしょう。
新日本フィルハーモニー交響楽団での指揮も長く続け、水戸室内管弦楽団では総監督を務めています。
忘れてならないのが、恩師齋藤秀雄を記念したサイトウ・キネン・オーケストラの存在です。齋藤の弟子たちを中心に組織されたこのオーケストラを、征爾は中心となって長く支えてきました。
「世界のオザワ」は、このように日本での音楽活動も精力的に進めてきましたが、若手や学生を育てることにも熱心です。征爾が、多くの指揮者に縁を得ながら世界的な指揮者になったように、征爾に縁を得た音楽家が立派に育っていることでしょう。