「内憂外患」とは?意味や使い方をご紹介

「内憂外患」という言葉をご存知ですか。新聞の政治・経済面で見たことがある、というかたもいるかもしれません。「憂」に「患」、いかにもネガティブな漢字が並んでいますが、実際のところ、どういう意味なのでしょうか。この記事では、「内憂外患」について解説します。

目次

  1. 「内憂外患」とは?
  2. 「内憂外患」の由来
  3. 「内憂外患」の対義語
  4. 「内憂外患」の例文
  5. 徳川斉昭と「内憂外患」

「内憂外患」とは?

「内憂外患」は、「ないゆうがいかん」と読み、国内にも国外にもたくさんの心配事があることを表現しています。「内憂」は内側の問題、すなわち国内の心配事のことで、「外患」は外側の問題、すなわち外国から受ける問題、災難のことを言います。国だけでなく、会社などの組織や個人についても使われることのある表現です。

「内憂外患こもごも至る」という慣用句で使われることもあります。これは、国内の心配事と国外の心配事が次々に起こる、ということを意味します。漢字での表記は「内憂外患交交至る」です。

「内患外禍(ないかんがいか)」「内憂外禍(ないゆうがいか)」も、「内憂外患」と同じ意味の言葉です。

「内憂外患」の由来

中国の春秋時代の歴史書である『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』の「成公(せいこう)一六年」に、「内憂外患」の由来となるエピソードがあります。

中国の春秋時代では、いくつもの小国が争いを繰り返していました。成公16年(紀元前575年)、晋(しん)という国と楚(そ)という国の間に鄢陵の戦い(えんりょうのたたかい)と呼ばれる戦いが起き、楚が攻めてくるのに対してどうするべきか、晋の国内で議論になります。

そのとき、晋の政治家である范文子(はんぶんし)が、次のように言います。「唯聖人能内外無患。」国の中と外、両方とも心配事のないことはない。それを可能にするのは聖人だけである。

われわれは聖人ではないのだから、国外が安寧ならば必ず内憂が起こる。だから、あえて楚を国外の心配事として残しておいて、国内の平和を保つべきではないか、と、楚とは戦わないことを主張します。

結果としては、晋は楚と戦い、勝利を収めます。このとき、范文子は晋の国王に、浮かれないで気を引き締めるように言いますが、この言葉が届くことはなく、後年、国王は家臣によって暗殺されてしまいます。

このときの「内外無患」が、「内憂外患」の由来とされています。

「内憂外患」の対義語

内平外成

「ないへいがいせい」と読みます。読み下すと、「内(うち)平(たいら)かに外(そと)成(な)る」となります。

国内は良く治まっていて、外国とも良好な関係を保っている、平和な状態を指します。元号「平成」の由来となった言葉とされています。

地平天成

「ちへいてんせい」と読みます。読み下すと、「地(ち)平(たいら)かに天(てん)成(な)る」となります。

国土のようすは平静で、自然のようすも順調に動き、世の中が平穏であるようすを指します。この言葉も、元号「平成」の由来とされています。

「内憂外患」の例文

  • 国内の経済状況が悪化する中、近隣諸国との外交問題も山積みとなっている。まさに内憂外患こもごも至る状態である。
  • パワハラを受けた多くの社員が会社を辞めていく中、多くの取引先からも取引を切られ、わが社は内憂外患の状態だ。
  • 江戸時代末期、国内の政治の不安定な状態の中、開国を求めるアメリカへの対応も迫られ、幕府は内憂外患の状況に直面していた。

徳川斉昭と「内憂外患」

江戸時代末期の水戸藩主に、徳川斉昭(とくがわなりあき)という人物がいます。勤王、尊攘の思想の持ち主であり、江戸幕府第15代、最後の将軍である徳川慶喜の実父としても知られています。

彼が1839年、第12代将軍の徳川家慶(とくがわいえよし)に提出した政治意見書『戊戌封事(ぼじゅつふうじ)』は、まさにこの「内憂外患」という状態を憂えた内容だとされています。国内では、財政の悪化、乱れた政治、米価高騰による大塩平八郎の乱などの「内憂」が起き、国外からは外国船が来航するなど、「外患」も山積みでした。これらへの対処のため、徳川斉昭は幕府に改革を迫るのです。

その後、斉昭は大老の井伊直弼(いいなおすけ)と対立し、安政の大獄で水戸での永蟄居を命じられ、1860年、水戸で病没します。


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