「伺える」とは?
「伺える」(うかが-える)とは、動詞「伺う」の語尾が「~える」と変化して、可能・自発の意味を表す言葉で、「伺うことができる」という意味です。
元の「伺う」(うかが-う)は、敬語(謙譲語)の一種であり、現代語としては以下の意味を覚えておきましょう。
- 聞く(例文:お話は伺っております。)
- 尋ねる・問う(例文:ひとつ伺ってもよろしいでしょうか?)
- 訪問する(例文:こちらからお伺いいたします。)
ただし、「伺える/伺う」は、「窺える(うかが-える)/窺う(うかが-う)」と混同して使用されることがあります。この二つの言葉の違いについては、後ほど解説します。
「伺える」の使い方
「伺える」は、「聞く」「尋ねる・問う」「訪問する」のへりくだった言い方で、敬語(謙譲語)ですので、社会人の方はぜひ使いこなせるようになっておきましょう。第一に心がけるべきは、謙譲語は「自分(を含む集団)の動作以外には用いない」ことです。
また、「伺える」という形で使うシーンは少々限定的です。丁寧な表現としては、「お伺いする(できる)」という言い方もあります。
例文
- うまく最前列の席を確保できた。これで〇〇先生の説法を間近で伺える(聞ける)ぞ。
- 教授はどこにいらっしゃるのかしら。今日こそ〇〇の件を伺える(問える)チャンスだと思ったのに…。
- あいにく10日は弊社の休業日となっております。11日であれば伺える(訪問できる)のですが…。(※「お伺いできる」のほうがやや丁寧)
「伺える」と「窺える」の違い
「窺う」の意味
- のぞいて様子を見る。そっと様子をさぐる。
- 密かに付け入る隙を狙う。時期の到来を待ちうける。
- 見て察知する。
- 手がかりを求めて調べる。
- いちおう心得ておく。
混同は避けるべき
上記の通り、「窺う」と「伺う」の意味は、直接的には通じていません。何より「窺う」には、敬語(謙譲語)としての性質がありません。そのため、「伺える/伺う」と「窺える/窺う」は、基本的には別の言葉として混同を避けるべきであると言えます。
しかし、これら二つの言葉には意外な共通点もあり、一概に区別ができない使い方もあります。それは、抽象的な概念の「察知」です。
抽象的な概念の「察知」という共通点
「窺える」という言葉は、多くの場合、「そっと様子をさぐって感じ取ることができる」「~という様子が推察できる」という意味で使われます。
一方の「伺える」も、謙譲語として相手から少し距離を置いて間接的に「聞こえる」という意味で使われることがあります。この「聞こえる」は、例えば「手続きが煩雑だという声が聞こえる」のように抽象的な概念にも用いられます。
このように、「様子」などの抽象的な概念が、「察知」するというニュアンスとかなり似ているため、「伺える」は「窺える」と同義語であるかのように用いられることがあるのです。
「伺える」と「窺える」の使い分けのポイント
以上の事柄から、本来、「窺える」を使うべき場面で「伺える」を使うことは、厳密には誤りとすべきと考えられますが、慣例的には同義語的に使用されているケースもあるようです。
「窺える」が適切な例
基本的には、「〇〇という様子がうかがえる」という場合には「窺える」としたほうが適切であることを押さえておきましょう。
- この手記からは、筆者の並々ならぬ苦難の日々が窺える。
- 拍手喝采が鳴りやまないことから、彼の人気ぶりが窺える。
「窺える」が誤りの例
逆に「伺える」を使うべき場面で「窺える」を使うことはできません。「伺える」は、謙譲語であり、「窺える」ではその機能を果たせないからです。
- 10時頃であればそちらに窺えるのですが、いかがですか?
- 例の件、社長にお窺いしておいて。