「凡百」とは?
「凡百」には、複数の読み方(ぼんぴゃく・ぼんひゃく・ぼんびゃく)があります。「はんぴゃく」という読み方もありますが、一般的ではありません。
「凡百」は、さまざま、もろもろ、かずかず、などを意味する言葉です。たくさんある、ということから派生して、現代では「凡百」は、ごくありふれた、平凡な、並みの、などの意味でも用いられるようになりました。
「凡百」の漢字の意味
「凡百」の意味をより深く理解するために、それぞれの漢字を解説していきましょう。
「凡」は、すべて、並みの、ありふれた、おおよそ、などの複数の意味をもつ漢字です。「百」は、読んで字のごとく数の百を表しますが、そこから転じて、数々の、もろもろの、さまざまな、など「多さ」の総体をも意味しています。
この「凡」と「百」が合わさった「凡百」は、「数の多さ」を表します。数が多いということがすなわち、ありふれている、凡庸、月並み、などの意味にもつながるわけですね。
「凡百」の使い方
数が多いことから転じて「ありふれた」などの意味を持つ「凡百」。用いられる場面は、どちらかというと、「凡百の~を越える~だ」というように、月並みではないほどに素晴らしい、ということを表すための比較として使われるケースが目立ちます。
ありふれたレベルとしての「凡百」をもってくることで、相反する優秀さを際立たせる、という手法です。そのような使い方も含め、文例を挙げてみましょう。
文例
- 優れたシェフになることを目指して修行を続けてきたが、先週料理長から、お前は凡百の料理人の1人にすぎないと言われてしまった。
- 頭脳が優秀というだけの凡百の学者が多い中、破天荒な生き方をする学者たちがノーベル賞を受賞するケースが多い。
- プロのサッカー選手になった中山君は、中学生のころから、凡百のサッカー選手をはるかに超える、ぬきんでた技術を身に着けていた。
- 山田氏のヘアカットの腕前は、凡百の美容師の技能では及ばない、まさに天才的なレベルだ。
「凡百」の類語
「平凡」
「平凡」(へいぼん)とは、目だって優れたところがなく、普通であること。その他の多くのことと大差がなく、面白みに欠けること、などの意味があります。「凡百」とくらべて、やや「つまらなさ」のニュアンスが強いようです。
【文例:智子は、長年つきあってきた良太に別れを告げた。ある意味長所だと思ってきた彼の平凡さが、共に生きるにはあまりに退屈であることに耐えられなかったのだ】
「凡庸」
「凡庸」(ぼんよう)とは、とりえもなく、すぐれた面もなく平凡なこと。普通な凡人。取り柄がないこと、などを意味します。人間も事物も対象としますが、比較的人の性質において用いられることが多い言葉です。
とはいえ、ネガティブな意味をもちますから、他者の評価などに用いる時には、気をつけるべき言葉です。
【文例:結局のところ、凡庸な日々を過ごしていると凡庸な人間になるのだということを、僕はこの数年の体験で思い知ることになった】
「月並み」
「月並み」には、毎月定例に行われること、などの意味もありますが、「凡百」の類語としては、ありふれていて、世間一般的にきわめて普通であること、という意味が当たります。
型にはまった平凡さ、という意味があるため、否定的なニュアンスをもつ言葉です。
【文例:松本君は、陶芸家を目指して10年陶芸に打ち込んできたが、どんなに努力しても月並みな作品しかできず、ついに方向転換して仕事探しをはじめたそうだ】
「凡百」のまとめ
「凡百」そして、その類語の「平凡」「凡庸」「月並み」を解説してきましたが、どのような感想をもたれましたか?普通であること、月並みなことにも、実は大きな幸せが潜んでいるかもしれません。
要は、非凡な天才、平凡な普通人、どのような自分であれ、心が幸せであれば人生は大成功。「凡百」の真の意味はとらえかた次第、ともいえましょう。