「一貫の終わり」の意味や使い方
「一貫の終わり(いっかんのおわり)」は、正しくは「一巻の終わり」と書き、「一貫」は間違った使い方です。
「一巻の終わり」は、一つの物語の結末がつくこと。特に死ぬことで、そのことから転じて、今から何かをしようとしても手遅れである状態を言います。
悪い結果や悲劇(死ぬことや事業の失敗など)的な場合にのみ使い、単なる終結については使いません。もちろん良い結果(ハッピーエンド)も同じです。
- ここで足を滑(すべ)らせたら一巻の終わりだ
- この取引に失敗したら、この店も一巻の終わりだ
- 一発の銃弾で独裁者の生涯は一巻の終わりとなった
×延々と続いた会議もようやく一巻の終わりとなった
「一貫の終わり」の由来
「一貫の終わり」の「一貫」とは、本来「首尾一貫(しゅびいっかん)」「一貫教育(いっかんきょういく)」というように、始めから終わりまでの一連のできごとを表す言葉です。一つの考え方や方針を一筋(ひとすじ)に貫き通すという意味なので、「ひとまとめのものが終わる」の意味に解釈することにさほど無理はありません。
むしろ無理がないために、間違っているにも関わらず多く使われ、そもそも間違っていることがわからないという場合が多いのではないでしょうか。
本来の「一巻の終わり」の由来
「一巻の終わり」の「一巻」とは、巻物(まきもの。現在の製本法以前の書物)やフィルム(映画)の一巻きのことを表します。現在の平たい製本についても、一巻、二巻、というように数えるのは、この巻物からきています。
現代と違い、娯楽小説などの文芸作品でも一巻ごと完結が通常で、何十巻といった大作は(製作から発行まで、現代とは比べ物にならないほどの作業量、時間、お金が必要になることもあり)ほんの一握りの、よほど特殊な例でした。そのため、「一巻=(物語の)すべて」という感覚が当然のようにありました。
またその巻物に、「活動写真(かつどうしゃしん。明治や大正時代の映画)」の弁士(べんし)が「一巻の終わり」を上映終わりの決まり文句に使ったため、映画のフィルムのイメージも加わりました。映画のラストのようにドラマティックかつ迫力や説得力のあるものは、それまでの日本にはなかったものです。
(弁士とは、当時は音声録音再生の設備が未発達だったので、映画は映像だけで音がまったくなく、上映しながら同時にせりふや状況説明をするアナウンサーが不可欠でした。話術で客を呼ぶという意味では、講釈師(こうしゃくし。講談をする人)や噺家(はなしか。落語をする人)と似た職業とも考えられます)
「一貫の終わり」の類語
「一貫(一巻)の終わり」の類語は、以下のようなものがあります。
- 八方塞がり(はっぽうふさがり)
- 逃げ場がない
- 逃げ道を立たれる
- 袋の鼠(ふくろのねずみ)
- 絶体絶命(ぜったいぜつめい)
- 万事休す(ばんじきゅうす)
- 手遅れ(ておくれ)
- 衰退(すいたい)
- 廃絶(はいぜつ)
- 崩壊(ほうかい)
- 壊滅(かいめつ)
- 滅亡(めつぼう)
- 終焉(しゅうえん)
- 止めを刺す
- 運のつき
- 再起不能(さいきふのう)
- カタストロフ
- 一場の夢(いちばのゆめ)に終わる
- 道半ば(みちなかば)
- 志半ば(こころざしなかば)
「一貫の終わり」の英語
「一貫(一巻)の終わり」の英語は、以下のような例があります。
- 彼は追い詰められて絶体絶命だ…He has his back to the wall.
- 絶体絶命のピンチ…be in a terrible pinch
- 炎の中で逃げ場を失った…They had their escape cut off by the flames.
- 手遅れにならないうちに最善の手を打ってください…Please do the best you can before it is too late.
- 袋の鼠も同然である…I'm like a mouse in a trap./I'm in a hopeless fix.