「疑心暗鬼」の意味
四字熟語としてよく使用される疑心暗鬼(ぎしんあんき)ですが、この言葉にはもともと続きがあることをみなさんはご存知ですか?疑心暗鬼の元となったのは「疑心、暗鬼を生ず」という言葉です。
それが省略されて、今日では「疑心暗鬼」という四字熟語として知られるようになりましたが、言葉の意味自体は変わっていません。「疑心、暗鬼を生ず」とは「疑心を抱けば暗闇の中にいもしない鬼を見る」という意味です。
「疑心暗鬼」の使用法と例文
「疑心暗鬼」という熟語は、何もかもが疑わしい、あるいは恐ろしく見える様を表しています。したがって、誰かや何かを疑っている(いた)状況を説明するときに使用するとよいでしょう。
例えば「私は味方だと説明しても聞き入れてくれない。彼は疑心暗鬼になっているのだ」「給食費はどこかに仕舞い忘れているに違いない。ただの疑心暗鬼だと私は自分に言い聞かせた」などといった使い方ができます。
「疑心」とは?
ところで、暗鬼を生ずる原因と言われる「疑心」とは一体なんのことなのでしょう?実は疑心とは、もともと仏教から生まれた言葉なのです。
仏教には六根本煩悩という用語があります。貪(とん)は欲深い心、瞋(じん)は憤る心、癡(ち)は愚かなこと、慢(まん)は他者を見下す心、疑(ぎ)は疑う心、悪見(あくけん)は誤った価値観や思想。この6つを指して六根本煩悩と言い、その中の「疑」が疑心にあたります。
疑心は主に仏教の教えを疑うことを指しますが、それ以外にも他者を怪しんだり穿った見方をしたりするような心の働きも意味しています。
「疑心暗鬼」の成り立ち
中国の思想書『列子』にこんな逸話が記されています。斧をなくしたある男が、隣家の息子に盗まれたのではないかと疑いました。すると隣家の息子の一挙一動が怪しく思えてきます。ところが後日、斧が谷底から見つかって、以降隣家の息子を怪しいとは思わなくなりました。
この逸話について、『列子』の注釈書である『列子杲斎口義・説符篇』が「これぞことわざに言う疑心暗鬼を生ずというものだ」と記し、今日の疑心暗鬼という四字熟語につながったとされています。
「疑心暗鬼」の類語
疑心暗鬼の類語に「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということわざがあるのをご存知ですか?尾花とはススキの別名で、幽霊だと思ったものの正体が実は枯れたススキだったということから「恐怖心に駆られるとなんでもないものが恐ろしいものに見えてしまう」あるいは「実態を確かめれば恐るるに足りないものだった」という意味で使用されています。
また「茄子を踏んで蛙と思う」ということわざは、夜間に外出した男が茄子を踏んで「ぐい」と音がしたのを聞き、蛙を踏み殺したと勘違いした逸話に由来しています。男はその夜、夢の中で大量の蛙に責め苛まれますが、翌朝外に出て確認してみると蛙と思ったものが実は茄子だったと知るのです。
このことから「冷静でないときはどんな思い込みをするかわからない」といった意味で「茄子を踏んで蛙と思う」ということわざが使用されています。
「疑心暗鬼」と類語のニュアンス
前述した「疑心暗鬼」とその類語には、平静でない心が行動や判断に影響するという共通点があります。意味としてはほぼ同じなので、基本的にはどの言葉を使用しても問題ないかと思われますが、由来となったエピソードによって微妙なニュアンスの相違があります。
例えば「疑心暗鬼」で思い込みの元となるのは猜疑心(さいぎしん)です。しかし「幽霊の正体見たり枯れ尾花」では、勘違いの元となっているのは疑心よりも恐怖心です。「茄子を踏んで蛙と思う」で男に悪夢を見せたのは罪悪感と言えるでしょう。
このように、心の目を曇らせる要因は説話によってさまざまです。使用する際には類語のうちのどの語句が一番適切か、ぜひ考えてみてくださいね。