「不倶戴天」とは?
「ふぐたいてん」と読みます。漢字検定準一級の四字熟語ですが、漢字の書き間違いが多く見られます。「不倶」を「不具」、「戴天」を「載天」と書かないように注意しましょう。
「不倶戴天」の意味
「不倶戴天」の意味は、「生かしてはおけない、復讐せずにはいられないと思うほど深い恨みや憎しみがあること、またその間柄」のことです。
「不倶戴天」の「倶」という文字には「ともにそろって」という意味があります。また、「戴」には「頭上にいただく」という意味があります。つまり、同じ天の下では共に生きることなどできない、それほど相手を恨み憎んでいるさまを表しているのです。
日本で仇討ちが認められていた時代には、特に主君や父親の敵などの仇討ちの相手を指していました。
「不倶戴天」の由来
「不倶戴天」は、中国の『礼記(らいき)』という書物の『曲礼(きょくれい)・上』という篇の中で、仇討ちの礼について書かれている次の文章に由来しています。
父親の仇とは共に同じ天の下に生きない(つまり、どちらかが死ぬまで必ず仇討ちをする)。兄弟の仇とは、武器を肌身離さず持ちその場ですぐに戦う。友人の仇とは、同じ国に住まない。
「不倶戴天」は、元々は父親が殺されれば息子はその仇討ちをしなくてはならないということを説いている言葉なのですが、最近では殺しても殺しても飽き足りないほど憎い相手に対して使われるようになりました。
「不倶戴天」の使い方
「不倶戴天」は、「不俱戴天の仇」や「不倶戴天の敵」といった使い方をします。しかし、日常生活やビジネスシーンにおいて、「不倶戴天」という言葉を使うことはほとんどありません。ここでは、文豪たちがどの様に「不倶戴天」を使っていたのか見てみましょう。
「不倶戴天」の引用
『女大学評論』:福沢諭吉
『応仁の乱』:菊池寛
『名人地獄』:国枝史郎
※青空文庫出典
「不倶戴天の敵」は、心の底から憎んでいる相手のことを指すので、「ライバル」や「好敵手」といった相手の存在が自分自身にプラスの効果をもたらすような間柄の競争相手とは全く異なります。
日本三大仇討ち
「不倶戴天」という言葉は、仇討ち(復讐)せずにはいられないほど憎い相手のことを表現しているということがおわかりいただけたと思います。日本でも、明治時代に入り『敵討禁止令』(1873年)が発令されるまで、仇討ちは武家のしきたりとして存在していました。そんな数々の仇討ちの中で、日本三大仇討ちとして有名な仇討ちをご紹介します。
「曾我兄弟の仇討ち」
曾我祐成と曾我時致の兄弟が、父親の仇である工藤祐経を源頼朝の富士の巻狩りの際に討ち取った話。これは、父親が殺されたときにまだ幼い子供であった兄弟が、16年以上も父親の無念を忘れずに仇討ちを果たした悲願の物語として、歌舞伎や浮世絵などで人気を博しました。
「鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじのけっとう)」
渡辺数馬と荒木又右衛門が、数馬の弟・渡辺源太夫の仇である河合又五郎を鍵屋の辻(現三重県伊賀市小田町)で討ち取った事件。渡辺源太夫は岡山藩主池田忠雄が寵愛する小姓でしたが、源太夫に言い寄った河合又五郎は拒否され逆上し、源太夫を殺害してしまいます。
通常、兄が弟の仇討ちをすることは異例ですが、藩主・忠雄の遺言があったので、上意討ちの意もあり、渡辺数馬は剣術の特異な荒木又右衛門に助太刀を頼み、なんとか仇討ちに成功しました。
「赤穂浪士の討ち入り」
江戸城松之大廊下で、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、吉良上野介(きらこうずけのすけ)に切りつけたために切腹となり、主の無念を晴らすべく家臣・大石内蔵助以下47名が、本所の吉良邸に討ち入り見事本懐を遂げた事件。
浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた理由は、吉良への賄賂を浅野が断ったことから、吉良が数々の嫌がらせを行ったこととするのが定説ではありますが、実際のところはわかっていません。赤穂浪士の討ち入りを題材とした『忠臣蔵』は、現代でもお正月の風物詩となっており、日本人に愛される忠義の物語の一つです。
「不倶戴天」のまとめ
私たちが日常生活の中で「不倶戴天」という言葉を使うことはまれですが、ゲームやアニメの中でカッコいい印象の言葉として目にすることはあるかもしれません。しかし、「不倶戴天」の言葉の意味や使い方を知ると、使う相手やシチュエーションに慎重に気を配って使わなければいけない言葉だということがおわかりいただけたのではないでしょうか。