「セオリー」の語源
「セオリー」は、英単語「theory」の発音をカタカナで記述した言葉です。この英単語「theory」を日本語に直訳すると、「立証・確立された理論・学説・方法論」、また「意見/自説」となります。このうちの「理論」とは、対義語に「実践」を持ち、「現象を法則的・統一的に説明するために、筋道を立てて組み立てられた知識の体系」を意味します。
そして更に、この英単語「theory」自体の語源は、「見ること/見解」を指すギリシャ語「θεωρία」にあります。「見解」の意味は、「物事に対する考え方や価値の判断」です。つまり、よく観察し、考察を重ねて判断結果を出すこと、またそのようにして出した結果を示します。
ご覧の通り、これらの言葉はいずれも、特別に珍しい日本語ではありません。では、なぜ日本語ではなく、カタカナの「セオリー」という表現が重用されるのでしょうか?
「セオリー」の意味
見解・理論・説…どれも個別には一般的な日本語の単語で記述出来るにも関わらず、敢えてカタカナで「セオリー」という表現が使われる場合には、その意味は単なる英単語の直訳としてではなく、語源となった言葉の意味全てを総合した言葉として読み取る必要があるでしょう。
つまり「セオリー」とは、直訳すれば「観察・考察に基づいて導き出され、立証された方法論」を示す言葉ですが、敢えてカタカナの「セオリー」が使われる場合には、その「方法論」の中でも特に「確立された」、つまり「しっかりと裏付けされ、筋道が通っているもの」また「一般的に広く賛同を得られるであろうもの」という意味が強調されていると考えられます。
「セオリー」の使用例
それでは、よくある言い回しの例を挙げて、実際の使い方を見てみましょう。
例1)「この場合は、こうするのがセオリーだ。」
このように「セオリーだ」と断定系の主張の形を取る場合は、「説/意見」の意味が強く表れるでしょう。そして、単に自説を推すだけではなく、その自説がよく考察されたもので、しっかりと筋道の通ったものであること、そして「定番」とされるに足る一般的なものであることをも同時に主張していると読み取ることが出来ます。つまり、「この場合は、私はこうするのがいいと考えているし、それに、広く一般的にもそう考えられているはずだ。」と言い換えることが出来るでしょう。
例2)「セオリー的なものは、ある程度わかっているつもりだ。」
対して、このように「セオリー的」とぼんやりとした主張の形を取る場合は、例1とは異なり、「自説」というよりは「一般的」という意味がより強く表れるでしょう。広く支持を得られるに足る法則性、つまり物事の基本的な法則、定番・定石についての話であると読み取ることが出来ます。
ただし、この場合は、その前後の文脈や態度によって意図が異なる場合がありますので、相手の真意をよく確認する必要があります。
「一般的な定番の方法論はしっかり抑えているつもりだから、安心して任せてくれ」という意図がある場合もあれば、「一般的な定番の方法論はある程度わかっているつもりですが、まだ実践経験には乏しく…」等、自信がないことを示したり謙遜する意図がある場合もあるからです。
「セオリー通り」の使用例
「セオリー通り」という形で使われる場合の多くは、「一般的な方法論」という意味の強調と見てよいでしょう。
例1)「今回の作戦としては、セオリー通りにいこう。」
この場合の「セオリー通り」とはつまり、「一般的で堅実な作戦でいこう」と言い換えることが出来るでしょう。言外に、冒険は控えよう、という意図を読み取ることも出来るかもしれません。
例2)「何事も、必ずしもセオリー通りにはいかないものだ。」
この場合は、「セオリー通り」つまり「定石通り」に進もうとしている状況に対して警鐘を鳴らす意図、あるいは「セオリー通り」に進んだにも関わらずよい結果が出なかったときの慰めや反省の意図を読み取ることが出来るでしょう。