はじめに
今回のテーマは「メタ発言」です。この言葉は、演劇・小説・マンガ・アニメ・実写ドラマ・ゲームといった虚構の物語(フィクション)と密接な関わりを持っています。そこでまずは、「フィクション」についてお話しするところから始めます。
通常のフィクション
フィクションにはそれぞれの作品世界があります。通常、その世界は閉じられており、登場人物たちは閉じた世界の中で動きまわっています。たとえ宇宙からUFOが飛来しようと、時空を超えて未来からネコ型ロボットがやってこようと、すべては同じ世界の出来事。登場人物にとってはその世界こそが「現実」であり、彼らは自分たちの住む世界のことしか知らないという「お約束」になっています。
一方、作品を鑑賞する私たちは、それが虚構のお話であることを重々承知しているわけですが、人間にはいい意味で自分を騙す才能がありますから、作り話と知りつつも大いに人物に感情移入し、出来事に一喜一憂して作品を愉しむ。これが最もオーソドックスな「フィクションと受け手側の関係性」です。
メタフィクション
ところで、こんな場面を想像してみてください。国民的アニメの『サザエさん』。EDテーマが終わったあと、サザエさんが出てきて視聴者とじゃんけんをする。そこには特に不思議もありませんが、例えば本編のストーリー中に突然サザエさんが視聴者に呼びかけてじゃんけんを始めたらどうでしょう? 「閉じた世界」の住人であるはずのサザエさんが、まるでテレビのこちら側の「現実世界」に気づいているかのようにも見えます。
フィクションの表現手法に「メタフィクション」と呼ばれるものがあります。「メタ(meta-)」とは「高次の-」「超越した-」という意味を持つ接頭辞です。つまりメタフィクションとは「高次の(超越した)フィクション」。では、何が高次で何を超越しているのがメタフィクションなのでしょうか?
前述した内容をもとに考えてみましょう。作中世界のことしか知らないサザエさんが「お約束」を破って視聴者に話しかけるとき、彼女は「虚構」から飛びだして私たちのいる「現実」に接触しているのです。虚構を超越して、虚構より高次の現実にコミットする。この「閉じられた虚構世界の枠組みを壊して、現実と通行可能にする」手法を「メタフィクション」といいます。
メタフィクションの例
メタフィクションの定義は人によって解釈に揺れがあります。もう少しわかりやすいよう、いくつか例を挙げてみましょう。
- 舞台の劇中人物が上演中にこんな発言をしたとします。「台本だとそろそろ俺の身に大変なことが起きるはずなんだが……」
- アニメの作中でキャラクターが「放送時間も残りわずかなのでここからはペースを上げて行きましょー」と言ったら?
- マンガの登場人物が「作者さんは徹夜続きでお疲れモードなんです」などといいわけを始めたらどうでしょう?
いずれも作中人物は作品世界(虚構)を逸脱しています。彼らはより高次の「現実」が存在することを知っていて、それをみずから明かしているのがおわかりになるでしょう。通常の「お約束」を作り手側が破っているのです。たとえ話だけでなく、実際の作例も挙げてみます。
赤塚不二夫『天才バカボン』
赤塚不二夫の傑作ギャグマンガ『天才バカボン』の中にこんなシーンが出てきます。例によってドタバタ劇を繰り広げていた「パパ」が、フッと我に返って赤面し、読者に向かってこんなことをいいます。「みなさん、ワシがよっぽどバカだと思ってるんでしょ?」。
この瞬間、虚構と現実の垣根が崩れるのです。たしかに我々はパパのことをバカだなあと思って笑っていたけれど、じつはパパはすべてを知った上で、読者を愉しませるために「演じて」いたんじゃないか、と。
筒井康隆『虚人たち』
SFやブラックな笑いの短編群に始まって、実験小説にも積極的に挑んできた筒井康隆の長編『虚人たち』の中に、視点人物(語り手の役割)が意識を失っているあいだ、何も書かれていない白紙のページがえんえんと続く箇所があります。このケースでは、作中人物の内面(意識の状態)が、現実(我々が手にしている本の紙の上)に立ち現れているわけです。
「メタ発言」の意味と使われ方
字数の関係であまり深くは掘り下げられませんが、要するに「メタフィクション」とは、虚構と現実の次元を通行可能にし、あるいは虚構に対する受け手側の「お約束」を壊すことで異化効果をもたらす手法といえるでしょう。
さて、ここでようやく今回のテーマ「メタ発言」です。「メタ発言」とは、上記のように虚構内人物が発するメタフィクショナルな発言全般のことを指し、これは一種のネット用語でもあります。
「メタ発言」は小ネタのように使われることも多いため、視聴者がネット掲示板などで、「出た、メタ発言(笑)」などと「ツッコミ」を入れて愉しんだりするわけですね。そんなふうに話題にのぼるのも、それだけメタフィクションという手法が「普通ではない」特殊な効果をもたらすがゆえといえるのではないでしょうか。