「馬耳東風」の意味
「馬耳東風」は、「ばじとうふう」と読みます。「馬耳東風」の意味は、他人の意見や忠告に注意を払わず、聞き流すことです。「馬耳」は馬の耳のことで、「東風」は春の暖かい春風のことを意味しています。なので、「馬耳東風」のそのままの意味は、「馬の耳に春風がふく」と言うことなります。
では、どうして「馬耳東風」が、他人の忠告を聞き流すという意味を持つようになったのでしょうか。
「馬耳東風」の語源
「馬耳東風」の語源は、中国の詩人・李白(りはく)の次の詩にあります。
有如東風射馬耳”
“世人此を聞けば皆頭を掉り、東風の馬耳を射るが如き有り”
これは、「世の中の人はこれ(詩や歌)を聞いても、皆わからないと言って頭を振り聞き入れない。まさに、春風が馬の耳に吹き付けても馬が何の反応もしないのと同じだ。」という意味です。
李白は、どんなに素晴らしい詩を作っても、世間の人が理解せずにわからないと頭を振る様子が、春風が吹くと人々は春の訪れに心を弾ませるのに、同じように馬の耳に春風が吹いても馬には何の感動もない様子と同じだと嘆いているのです。
ここから転じて「馬耳東風」は、他人の意見や忠告を心に留めず聞き流すことを例えるようになりました。
「馬耳東風」と「馬の耳に念仏」
「馬耳東風」と同じように「馬」と「耳」が出てくる言葉に、「馬の耳に念仏」ということわざがあります。この「馬の耳に念仏」の意味は、馬にどんなにありがたい念仏を聞かせても無駄だということから転じて、いくら意見や忠告をしても耳を貸さず、全く効果がないことを言っています。
一見、この二つは同じ意味に見えますが、「馬耳東風」は他人の忠告を聞かないこと、「馬の耳に念仏」は、相手に何を言っても効果がない様子のことで、意味が違います。
違う見方をすると、「馬耳東風」の主語は「馬」です。「馬(に例えられている人)」が他人の意見や忠告を聞き流しています。それに対して「馬の耳に念仏」の主語は、「馬に念仏を唱えている様子」です。「馬(に例えられている人)に念仏を唱えること」が無駄だ、と言っているのです。
「馬耳東風」と「馬の耳に念仏」の意味や使い方の違いに注意して、きちんと使い分けましょう。
「馬耳東風」の使い方
では、「馬耳東風」はどの様に使うのでしょうか。例文を見てみましょう。
「馬耳東風」の例文
1.父は医者の忠告を「馬耳東風」に聞き流し、毎日好きなだけ酒を飲む。
2.彼は「馬耳東風」の姿勢で、どんな縁談話も受け付けない。
3.反抗期の子どもは「馬耳東風」だ。何を言っても聞く耳を持たない。
「馬耳東風」の引用
魔の退屈:坂口安吾
「地球圖」序:太宰治
母子叙情:岡本かの子
※青空文庫出展
例文からは、ただ単に話を聞いていないと言うのではなく、言われている人にとって有意義な話や、とても大切な話を、あえて聞き流している様子が伝わってきます。
「馬耳東風」のまとめ
いかがでしたでしょうか。「馬耳東風」の意味や使い方、その語源をお分かりいただけましたか?耳に痛い話ほど「馬耳東風」に聞き流したくなります。しかし、そう言う耳に痛い話ほど、春風の様にありがたい話なのかもしれませんね。