「武士の情け」の意味と使い方
「武士の情け(ぶしのなさけ)」とは、本来「武士が武士に対して与える恩恵」を指す言葉でした。武士が、弱い立場に立った他の武士に対して施す思いやりなので、「武士が弱者に対して与える恩恵」と言えます。
武士という身分が無い現代では、転じて、「強者が弱者を憐れんで思いやる気持ち」という意味で使用し、特に、「相手の面子(めんつ)を立てる」という場面で使われることが多いです。
- 例:「誠実な彼が隠し事をするなんて、よほどの事情があるに違いない。武士の情けで今は追求しないでおこう。」
「武士」とは?
「武士」とは?
「武士」の起こりは、10~11世紀頃に地方豪族が武装し始めたことによります。複雑な変遷を辿って、「武士団」が結成されるようになり、中央貴族の武力強化に登用されました。
やがて貴族の衰退で台頭した武士は、武士政権を作るまでになります。「御恩」と「奉公」の契約関係を主軸とし、より強い主人に仕えて武勲をあげることが武士の在り方でしたが、下克上の要素も孕んでいました。
江戸時代に入り泰平の世になると、武士は、今までのように戦で成り上がるという生き方は許されなくなりました。幕府は政権維持のために武士たちを抑えておく必要があり、そのために、新たな武士の在り方を示す「武士道」を作り上げたのです。
「武士道」とは?
江戸時代以前にも武士の倫理規範が存在しましたが、江戸時代になって、儒学の一派の朱子学を取り入れて、主君に対する一方的な忠誠や絶対的な服従を基本理念として、支配階級にふさわしい精神や行動を説いた「武士道」が確立されました。明治時代に入ると「武士道」は、国民道徳として強調されたのです。
武士のとっての「情け」とは?
面子を重んじる武士にとって、武士道を貫いて、正々堂々と腹を切る「切腹」は一つの名誉でした。仕えた主人に殉ずる「追腹(おいばら)」、不始末の責任を取るための「詰腹(つめばら)」など自決の原因は様々ですが、「切腹」は武士だけに許された行為だったのです。
「切腹」する際は、短刀で腹を一文字に切り裂きますが、それだけでは死に至るまで時間がかかり、相当の苦痛を伴うため、「介錯(かいしゃく)」の作法ができました。介錯人は切腹する者の側に立ち、首を切り落として苦痛から解放する役目を担う人で、通常2〜3人で務めました。
敢えて命を奪う行いをすることで、苦しませることなく切腹を成就させる「介錯」が、「武士の情け」という言葉の由来と言われています。武士にとっての「情け」は、「武士として速やかに死なせてもらうこと」あるいは「死なせてあげること」でした。
「武士の情け」を求めるのは誤用か?
以前、国会で反対討論していた議員にヤジが飛んだ際、発言中の議員が「武士の情けで聞け!」と言ったことが話題を集めました。注目されるに至ったポイントはいくつかあるのですが、その一つが「武士の情けは施すものであって、求めるのは誤用ではないか?」という意見でした。
以下の引用は、吉川英治・作の時代小説『牢獄の花嫁』の一節です。与力の東儀三郎兵衛が、江戸で笛の指南役をしていた女性の殺害事件と江ノ島の巫女殺害事件の容疑者として、隠居した先輩与力・塙江漢の息子、郁次郎を捕縛した場面で、郁次郎が東儀に「武士の情け」を求めています。
彼は、ともすると、仰向けに倒れそうになっては、東儀の腕に支え止められた。
「東儀殿、武士の情けです。しばらく、ま、まってください……」
京橋河岸まで、四、五丁歩むと、郁次郎は、渇かわいた声で、こう哀願した。
これを読むと、「武士の情け」を求めるのは誤用とはいえないようです。武士がいない現代において、「武士の情け」を「慈悲」、「思いやり」などと読み替えるならば、「武士の情け」を他人に求めるのは誤用ではないでしょう。
「武士の情け」の誤用
「武士の情け」の誤った使い方とはどのような場合でしょうか?例えば、同僚が賄賂を取っていることに気づいたのに見て見ぬ振りをするという場合など、「悪事を見逃す」という意味で「武士の情け」を使うのは誤用と言えます。
内部告発などをして同僚を裏切るわけにはいかない、自分もやっているので他人のことばかり悪く言えない、自分がやる時には仲間に見逃して欲しい、という気持ちを聞こえのいい言葉で誤魔化しているだけだからです。それこそ、武士の風上にも置けぬ行いです。
とはいえ、武士がいた時代には不正を働く武士も実在したので、庶民がそれを揶揄する時に「武士の情け」という表現を使うことはあったようです。
「武士の情け」の英訳
「武士の情け」を英訳すると次のようになりますが、「武士」について何も知らない人にとっては伝わりにくい英語です。
- 「samurai‐like mercy」「marcy of the samurai」:武士の情け、武士の慈悲
- 「samurai's compassion」:武士の哀れみ
名誉を重んじる武士のニュアンスを活かすならば、「顔を立てる、面目を失わせない」という心遣いをピックアップする方が良いかもしれません。
- 「No one loses his face.」:誰も面目を失わない
- 「allow someone to save his face」:〜の顔を立てる