「明日ありと思う心の仇桜」の意味とは?
「明日ありと思う心の仇桜」(あすありとおもうこころのあだざくら)とは、「明日も咲いているだろう」と思っても、はかない桜の花は次の日にはどうなっているかわからないという意味です。
「仇桜(「徒桜」とも表記)」とは、散りやすい桜の花を表し、転じて、すぐに形をなくしてしまうはかないものという意味を持つようになりました。
言い換えると「今日は何事もなくても、明日はどうなるか分からない。この世や、この世の中にある物すべては、はかなく移ろいやすいものだ」と理解できます。仏教の教義の1つである「無常」(「この世のあらゆる物で、永久に変わらないものなどない」という考え方)に通じているともいえるでしょう。
元の和歌について
「明日ありと(以下略)」の言い回しは和歌の一部分を取ったものです。
(訳)満開の桜の花が明日にも咲いているだろうと安心していてもどうであろうか。夜の間に嵐の風で吹き散ってしまうかもしれない。
親鸞聖人
この和歌は、仏教の浄土真宗を開いた親鸞聖人(しんらんしょうにん)が9歳で得度をする際に作ったと伝えられています。親鸞は僧侶になる決心をして、天台座主(てんだいざす)の慈円(じえん)を訪問しました。
しかし、すでに夜が更けていたので、慈円から「今日は遅いので、明日にしましょう」と言われました。その際に、親鸞が「明日まで待てません」と答え、この和歌を詠んだということです。
「すぐ先に思いがけないことが待ち受けているかもしれないので、後悔のないように今できることを精一杯しておきたい」という親鸞の真剣な気持ちを訴えかけているかのようですね。
「明日ありと思う心の仇桜」の使い方
「明日ありと思う心の仇桜」は、朝礼の訓示やスピーチなどで「生命を愛おしく思い、今生きることの大切さを説く」時に使われることがよくあります。
「今できるだけのことをする」というところにフォーカスして、転機を迎えている人に後悔しないように行動したほうが良いという前向きな言葉として贈ることもあります。また、大切なことを先延ばしにしないよう自戒する時に使うこともあります。
「明日ありと思う心の仇桜」を使った例文
- 朝礼で校長先生が「明日ありと思う心の仇桜」の話をしてくれた。確かに先のことはわからないのだから、一日を大切にするべきだと思った。
- Aくん、「明日ありと思う心の仇桜」という言葉がある。せっかくだから、前向きに挑戦してみるといいじゃないか。
- 自分はどうしても楽な方に流れてしまう。「明日ありと思う心の仇桜」を座右の銘にして、今できることをしっかりやろうと思う。
「明日ありと思う心の仇桜」の類似表現
朝には紅顔ありて夕べには白骨となる
「朝には紅顔ありて夕べには白骨となる」(あしたにはこうがんありてゆうべにははっこつとなる)は浄土真宗中興の祖、蓮如上人(れんにょしょうにん)の言葉で、『御文章』(ごぶんしょう)に所収されています。
直接の意味は、朝に元気はつらつとしていた少年(「紅顔」は血色の良い顔をした少年のこと)が、夕方にお骨となってしまうこと。そこから、人の生死は予期できずにむなしいこと、世の中はいつも同じ状態ではないことをいいます。
はかなく移ろいやすいものを例えている点、無常を表すところなど「明日ありと思う心の仇桜」とよく似ています。
【例文】
「朝には紅顔ありて夕べには白骨となる」の如く、ちょっと前までは栄えていた場所なのに、今はすっかりすたれてしまった。
「明日ありと思う心の仇桜」の反対に近い表現
明日は明日の風が吹く
「明日(あした/あす)は明日の風が吹く」は、明日には(今日とは違う別の)明日の風が吹いているのだから、くよくよと考える必要はないということです。今日落ち込むようなことがあっても開き直っていこうと考えたり、相手を励ましたりする時に使うことわざです。
「明日ありと思う心の仇桜」は、明日の状況は今日とは異なっているかもしれないから、できることは今しようという意図が見られます。しかし、「明日は明日の風が吹く」は、状況が変わることを肯定的にとらえています。
【例文】
今日のしくじりを明日までひきずる必要はないよ。「明日は明日の風が吹く」っていうから、きっといい方法がみつかるよ。