「対岸の火事」の意味
「対岸の火事」は、当事者にとっては非常に大変なことでも、自分には全く関係がなく痛くもかゆくもない、という意味の比喩表現です。
「対岸」というのは、川や湖などの向こう岸のことです。向こう岸で火事が起こっても、間に川や湖があるためこちらの岸まで燃え移ることはありません。ですから、自分には関係ないという気持ちで火事を眺めることができます。
それと同じように、ひとは他人に何か大変なことが起こっても、自分には関係がない、所詮他人事だ、と思ってしまいがちです。「対岸の火事」は、そのように関心の薄い態度や傍観する態度を表す際に使われます。
「対岸の火事」の例文と使い方
それでは、「対岸の火事」の例文と使い方を見てみましょう。
「対岸の火事」の例文
- 隣の部署の派遣社員が雇止めにあったと聞いた。私は正社員ではあるが、対岸の火事だとは思えなかった。
- 中東諸国での紛争を対岸の火事だと思っていてはいけない。
- 大臣の発言には失望した。所詮彼らにとってあの大地震は対岸の火事だったのだ。
「対岸の火事」は、2つ目の例文のように、「他人事」だと思う気持ちを戒めたり、最後の例文のように、そうした気持ちを非難したりする際にも多く使われています。
「対岸の火事」の誤った使い方
- 昨年は隣町が大雨の影響で洪水に見舞われ、大きな被害を受けた。洪水は対岸の火事だから、わが町でも対策会議を開くことになった。
この例文では、洪水と言う危険が対岸(=すぐ近く)まで迫っている、という意味で使われています。しかし、「対岸の火事」は、このように「危険がすぐ近くまで迫っている」という意味では使いませんので、注意してくださいね。
「対岸の火事」の由来
「対岸の火事」は、江戸時代には用例が見られない表現です。江戸時代には、類似表現の「川向かいの喧嘩」が主に用いられていました。
『岩波ことわざ辞典』によると、「対岸の火事」は「川向かいの喧嘩」の「喧嘩」が「火事」に変化して「川向かいの喧嘩」になり、そこからさらに「対岸の火事」に変化したものであろうとされています。
「喧嘩」が「火事」になったことで、事の大変さと無関心ぶりのギャップが強調されますね。また、「対岸の火事」という形が確認できる辞典類としては、明治39年の『俚諺辞典』が最も古いもののようです。
「対岸の火事」の類語
「対岸の火事」の異表現としては、上述の「川向かいの火事」や「対岸の火災」などがあります。その他にも似た意味の表現がありますので、いくつかご紹介します。
風馬牛
「風馬牛(ふうばぎゅう)」は、自分とは無関係なことや無関心なことのたとえとして使われます。
「佐藤さんが誰と付き合おうと私には風馬牛だ」など、自分には全く関係がないという態度をとる際に用いられる表現です。
また「風馬牛」にはもう一つ「馬や牛のメスとオスが、互いに求め合っても簡単に会えないほど遠く離れたところにいる」という意味があります。こちらの意味は「対岸の火事」にはありません。
高みの見物
「高みの見物(たかみのけんぶつ)」は、事件と直接関係のない安全なところから、そのなりゆきを興味本位に傍観する、という意味です。
単に傍観するだけでなく、物事のなりゆきを「面白半分に」見る、という点が「対岸の火事」とは少し違う点だと言えます。
「対岸の火事」と「他山の石」の違い
「対岸の火事(たいがんのかじ)」と「他山の石(たざんのいし)」は、音の響きが少し似ていることもあり、混同される方もいらっしゃるようです。そこでここでは両者の意味の違いを確認しましょう。
「他山の石」
「他山の石」は、「よその山から出た粗悪な石」という意味で、よその山から出る粗悪な石でも、自分の石を磨くのに役に立つという意味になります。
「他山の石とする」という形で使われることが多く、直接かかわりのない者の失敗や、自分とは関係のないところで起こったつまらない事柄も、それを参考にすれば自分の修養の助けになる、という意味で使われます。
つまり、「他山の石」は「他人の問題を参考にして、自分のために役立てる」という意味であり、一方「対岸の火事」は「他人の問題は自分とは関係のないものだとする」という意味なのです。
両者の意味を混同したり、名詞を取り違えて「他山の火事」などと言わないよう気をつけて使いましょう。
「対岸の火事」の英語表現
- The comforter's head never aches.(慰めを言う人の頭は決して痛くない)