「春遠からじ」とは?
「春遠からじ」は、現代調に直すと「春は遠くない(だろう)」という意味になります。多くの場合、「冬来(きた)りなば春遠からじ」という言いまわしで用いられ、「苦しい時期を耐え抜けば、やがて幸せが巡ってくる(だから頑張ろう)」という期待を込めた喩えとして使われます。
「冬来りなば春遠からじ」という表現は、イギリスのロマン派詩人、シェリーの長詩『西風に寄せる歌(Ode to the West Wind)』の末尾の一節、「If Winter comes, can Spring be far behind ?」を由来としています。
『西風に寄せる歌(Ode to the West Wind)』
「春遠からじ」というフレーズの由来となった詩と作者について、簡単に解説します。
『西風に寄せる歌(Ode to the West Wind)』とは?
『Ode to the West Wind』は、1819年、シェリーが27歳の年に発表されました。この年、イタリアに移り住んだシェリーは、フローレンス(フィレンツェ)に近いアルノ川岸の森で、同作品を一気に書き上げたといわれます。
作者がイギリス人ということもあり、「the West Wind」は、イギリス版の春一番とも言える、大西洋からの強風のことと思われがちですが、実は、北イタリアの晩秋に吹く「南アルプスおろし」のことです。
この詩は、嵐を体験した精神の高揚を歌ったものという説がありますが、シェリーは同年、イギリスの労働者弾圧を糾弾する詩をいくつか書いていますから、革命歌という説もあります。
激しい西風が吹きすさぶさまは、労働者を弾圧する支配層をかき乱し、虐げられてきた人々を鼓舞する力のたとえとも考えられています。
なお、原題の「Ode(オード)」とは、「特定の人や物に寄せる叙事詩」のこと。日本語では「頌(しょう)」、「賦(ふ)」などと訳されます 。「the West Wind」は西風ですが、定冠詞の「the」がついていることから、特定の西風を指します。
作者シェリーについて
シェリー(1792-1822)は、イングランドはサセックス州の富裕家庭に生まれました。若くしてバイロン、キーツ、ワーズワースなどと並ぶ詩人となり、特にバイロン卿とは親しい間柄にありました。
『西風に寄せる歌』以外にも、『鎖を解かれたプロメテウス』や『マッブ女王』『アドネイス』など多くの作品を著したシェリーですが、海難事故に遭い、30歳の若さで逝去しました。
シェリーの二度目の妻、メアリー・シェリーは、かの有名なゴシック小説『フランケンシュタイン』の著者としても知られています。
『西風に寄せる歌(Ode to the West Wind)』の訳者
『Ode to the West Wind』を日本語に翻訳し、この名フレーズを生み出したのは誰か、はっきりしたことはわからないようです。
A.S.M.ハッチンソンの小説『If Winter comes』を木村毅が翻訳した際、冒頭のエピグラフに書かれた『Ode to the West Wind』では、「冬来(き)なば、春遠からじ」と訳しています。
上記の小説が映画化される際、映画会社に訳詩の使用を許可したところ、「冬来(きた)りなば、春遠からじ」と変更されました。木村毅は、「俗っぽい響きがある」と、この変更に不満だったようですが、結果的にこちらが定着するに至ったようです。
ところで、「冬来りなば春遠からじ」のフレーズを生んだのは、カール・ブッセの詩『山のあなた』の翻訳で名高い詩人、上田敏とも言われています。しかし、これに関しては『シェリー詩集』の訳者・上田和夫と混同されているのではないかとの指摘もあります。上田和夫の訳では、「冬来たりなば 春遠からずや」と訳されています。
文法的な解釈
「If Winter comes, can Spring be far behind ?」
「冬来りなば春遠からじ」にあたる一節「If Winter comes, can Spring be far behind?」において、「Winter」「Spring」は、文中にあるにもかかわらず大文字で始まっている名詞なので、冬も春も擬人化されていることがわかります。
砕けた訳をするならば、「(あなたもご存じの通り、あの「春」氏は、あの「冬」氏のすぐ後ろにいるのですから)、冬氏が来るならば、春氏がその遥か後方にいるなんてことはあり得ないでしょう?」となります。
シェリーの原詩には、「つらい冬を耐えれば、やがて暖かな春が来るのだから頑張ろう」というニュアンスはありません。部分的にピックアップした、「冬来りなば春遠からじ」という日本語のフレーズに与えられた意味だと言えるでしょう。
「冬来りなば春遠からじ」の文法
「冬来りなば春遠からじ」を現代調に訳すと、「冬が来たなら春は遠くない」。より正確には、「冬が来るなら、春がはるかに遠いことがありえようか?(いや、春は近いぞ)」となります。「来(きた)り」はもともと、「来」+「到る」の複合動詞ですから、現在形の「来るなら」となるのです。
ですから、木村毅が訳した「来(き)なば」と、変更された「来(きた)りなば」に、文法上の違いはなく、表現上の違いと言えるでしょう。和文脈では「来(き)なば」、漢文脈では「来(きた)りなば」となります。
また、「遠からじ」の「じ」は打消推量の助動詞なので、もとの英詩の通りの疑問形で訳すなら、「遠いことがありえようか?」、反語的に訳すならば「いや、春は近いぞ」となります。