「天の時、地の利、人の和」とは?
「天の時、地の利、人の和」とは、「天(天候)による好機も土地の有利な条件には及ばない。また、土地の有利な条件も人々の強いつながりには及ばない」という意味を持つ慣用句です。
現代ビジネス風に言えば、「天の時、地の利、人の和」は成功の三要素であり、どれ一つ欠けてもいけないが、最も大切なものは「人の和」ということになるでしょう。まずは、「天」「地」「人」について説明します。
「天」「地」「人」とは
「天」「地」「人」は、通常、以下のように説明されています。
- (世界を形成する要素としての)天と地と人。宇宙の間に存在する万物を表す。
- 三つあるものの順位を示すのに用いる言葉(天が最上で、地・人の順番)
- 生け花の3本の役枝(やくえだ)の呼称
三つの意味のうち、2は、物事の順位のつけ方で、「甲乙丙」などと同様です。3は、華道の用語です。では、1の意味「天」「地」「人」とは何を表すのでしょうか。
「天の時、地の利、人の和」の使い方
「天の時、地の利、人の和」は、中国の戦国時代に生まれた言葉ですが、現代でも通用する概念でしょう。会話においては、言葉の一部を引用して使われることもあります。また、ビジネスの世界では、これを座右の銘にしている方々もおられるようです。
では、ビジネスシーンに当てはめて考えてみましょう。「天の時」は、チャンスを見定めること、「地の利」は、自分(組織)が置かれている環境(組織の強みや個人のスキルなども含めて)のこと。「人の和」は、人脈を含めた良好な人間関係の構築のことと解釈できそうですね。
例文
- 新年のあいさつで社長が、「天の時、地の利、人の和」の大切さを繰り返し話していたけど、自分たち経営陣の対立騒動をまず何とかしてほしいよ。
- 久しぶりのホームでの試合だったのに、選手同士の連携がバラバラで惨敗してしまった。地の利は人の和に如かずってほんとだな。
「天の時、地の利、人の和」の語源
「天の時、地の利、人の和」は、中国・戦国時代の儒学者・孟子(もうし)の言行録と言われる『孟子』に見られます。
訓読文:孟子いわく、「天の時は地の利にしかず、地の利は人の和にしかず」
訳文:孟子は言った、「天(天候)がもたらす幸運(チャンス)は、地勢の有利さには及ばない。地勢の有利さは、人心の団結には及ばない」
より具体的にすると、「戦において、天候などの自然条件が有利なのに勝てないのは地理的条件の不利にあり、地理的条件が有利なのに勝てないのは、敵の人心が団結して強固であるからである」と読み解くことができます。
「孟子」の言いたかったこととは?
「孟子」は、「人心の一致団結が強国を作る」ということを伝えたかったのです。言い換えれば、「内政(国造り)をしっかりしてから、外政に向かうべきで、軽々しく戦争を行ってはならない」ということを主張していると言えるでしょう。
ただし、これは「人の和」が最も大切だと述べているものの、「天の時」「地の利」を疎かにしてよい、と言っているわけではありません。戦争もやむなしという時代、この三つが備わって初めて勝利の道が開けると説いています。
『孟子』とは
孟子は、仁義王道に基づく政治を主張し、自らが孔子(こうし)の継承者という自負(じふ:自信と誇りを持つこと)を持って、性善説・易姓革命説を唱えた儒学者です。
孟子の言葉や行動、思想が記されている『孟子』は、宋の時代に、儒学者・朱熹(しゅき)が、儒教の新しい基本文献とした『四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)』の一つです。
「天の時、地の利、人の和」を表す歴史上の出来事
「天の時、地の利、人の和」は、戦乱が絶えなかった中国で生まれた言葉ですが、日本史上の大きな出来事でもこの言葉が当てはまる史実があります。その代表と言えるのが、織田信長が今川義元を討った桶狭間(おけはざま)の戦いです。
「桶狭間の戦い」とは
桶狭間の戦いとは、駿河(するが:現在の静岡県中部)の今川義元が2人を超える軍勢を率いて尾張(おわり)に侵攻した時、本陣を置いた桶狭間(現在の愛知県豊明市)に、織田信長が2000人の兵で奇襲し、今川義元を打ち取って、今川軍を撤退させたというものです。
しかし、それ以上に敵の10分の1程度という少数の兵力での無謀とも思える戦いに勝ったのは、「天の時」「地の利」という要素に加えて、最も大切な「人の和」という織田軍の強固な結束があったからではないでしょうか。