「隔世の感」とは
「隔世の感」は「かくせいのかん」と読みます。時代の変化に取り残され、自分の想像と現実の世の中に大きな隔たりがあるという意味です。「隔世」とは時代と時代との隔たり、距離を指しています。
中学生や高校生の時に「隔世遺伝」について習った方も多いでしょう。両親の世代を飛ばしているように見える遺伝、親の世代にはないけれど祖父母の世代にある特徴を受け継ぐような遺伝です。このように途中の段階を飛ばしていることを「隔世」といいます。
時代の流れの真っただ中にいる人には些細な変化でも、最初と最後しか知らない人には劇的に感じることもあります。「何段階か飛ばしていないかな?」と変化の大きさに戸惑うような感覚が「隔世の感」です。
「隔世の感」の使い方
隔世の感がある
「時代が変わったなぁ」「昔とは違うんだよね」としみじみこみ上げるものがあることは「隔世の感がある」や「隔世の感を覚える」と表現します。
【使用例】
- 十年ぶりに訪れた故郷はすっかり観光地となっていて、伝統的な日本の田舎だったころの面影もないことに隔世の感を覚える。
- 転んで泣きわめいていたあの子がもう結婚とは、なんとも隔世の感がある。
- 父の男尊女卑の価値観には子供たち全員が隔世の感を抱いている。
隔世の感に堪えない
あまりにも変化が大きく、時代がまるで違うと感じてしまう。抑えようとしても抑えきれないくらいに「隔世の感」が強い時には「隔世の感に堪えない」や「隔世の感を禁じ得ない」と言います。
【使用例】
- かつては人々が行きかう大都会だったのに、今では人っ子一人いない廃墟と化しているとは。あまりのことに隔世の感を禁じ得ない。
- タイムカプセルを開けると、思い出の品がいくつも出てきた。当時の宝物を見ると隔世の感に堪えない。
「隔世の感」の類語
今昔の感
「今昔の感(こんじゃくのかん)」とは今と昔は違う、時代が異なると感じてしまうことです。「隔世の感」とほとんど同じ意味です。
よくある誤用として「昔日の感(せきじつのかん)」が挙げられます。「昔日」とは過去の日々や昔の日々、在りし日のことです。「昔日の面影」という形で使います。
諸行無常
「諸行無常(しょぎょうむじょう)」は、あらゆるものは移り変わる、変わらないものなんてないという仏教の言葉です。
「隔世の感」が「時代が違う」「変わってしまった」と感慨に浸ったり呆然としたりすることに使われるのに対し、「諸行無常」は「留めることはできない」という諦めや悟りの気持ちとともに用いられます。
同じように、すべてのものは変わり続けるという意味の「万物は流転する(パンタ・レイ)」は、古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスが残した言葉です。
浦島太郎
日本人ならほとんどだれもが知っているであろう昔話、『浦島太郎』。話の内容から、時代の変化に呆然とすることのたとえとして引き合いにだされることもあります。
例えば、海外生活が長い人が久しぶりに帰国した時や、長いブランクから仕事を再開した時がそうですね。久しぶりすぎてわからない、状況が全然違うので経験がまるで役に立たないというときに、「完全に浦島太郎で何していいかわからない」という風に使います。
また、「浦島太郎状態」や「浦島な感じ」ということもあります。『浦島太郎』自体は古くからある物語ですが、このような使い方は最近になってからでてきたようです。