「高楊枝」の意味
「高楊枝(たかようじ)」が表しているのは、次の2通りの状態です。
- 「食後にゆったりと楊枝を使う様」ということで、「満腹な状態」
- 「何もしないでいること」「ぶらぶらと遊んでいる様」
「高楊枝」の使い方
「高(たか)」は楊枝の値段や品質のことではなく、「悠々と何かをすること」という意味で、「高枕(たかまくら)」などの「高」と同じように使われています。
また、なかなか使うことがありませんが、前述した「高楊枝」の2番目の意味、「何もしないでいる」「ぶらぶら遊び歩いている」という意味で使う場合は、「高楊枝でいる」「高楊枝だ」という使い方をします。
- 用例:「那麽(そんな)思想は全く自分には無いからと高楊枝でゐる(いる)。」(出典:尾崎紅葉『多情多恨』)
「武士は食わねど高楊枝」とは?
「高楊枝」が最も使われるのは、「武士は食わねど高楊枝」という慣用句においてです。この場合の「高楊枝」は上記の1「満腹の状態」の意味です。「武士は食わねど高楊枝」は、「武士は貧しくて食うに困っていても、腹一杯食べたフリをする」ことを指し、ここから2通りの例えに使われます。
- 「武士は生活が困窮しても不義を行なわない」という「矜持の高いこと」を表す
- 「体面を気にして見栄を張っている」「やせ我慢している」ことを表す
泰平の世になって、戦で功績をあげることができなくなった武士は、禄高は上がらず、しかし、支配階級としての体裁を整えるための出費は減らず、懐事情は厳しいものでした。「武士は食わねど高楊枝」は、そんな武士の姿から派生した言葉なのです。
次にご紹介する「武士は食わねど高楊枝」の類義語は、1の「矜持の高いこと」というニュアンスの言葉です。
「武士は食わねど高楊枝」の類義語
「渇しても盗泉の水を飲まず」
「盗泉」とは、中国山東省泗水県に存在する泉の名称です。孔子はその名前を嫌って、喉が渇いてもその泉の水は飲まなかったという故事から、「どんなに苦しい時でも、決して不正は行わないこと」。
「鷹は飢えても穂を摘まず」
気高い鷹は、どんなに空腹でも人間の作った稲穂をついばんだりしないことから、「高潔な人は、どんなに困窮しても不正をしてまで生き延びようとしないこと」です。
「虎は飢えても死したる肉を食わず」
虎は飢えていても死んだ動物の肉は食わないという俗信から、「潔白な人は、どんなに困窮しても不正な金品は受け付けないこと」を意味。
実際の虎は、大きな獲物を仕留めた時は、食べ残しを樹上や藪の中に隠して何日かに分けて食することもあるので、死んだ動物の肉を食べることもあります。
「悪木盗泉(あくぼくとうせん)」
「悪木」は役に立たない木、または、人を傷つけたり悪臭のある木のこと。「盗泉」は、「渇しても盗泉の水を飲まず」でご説明した、孔子の故事が残る泉の名前です。「悪い木の陰で休んだり、悪い名前の泉の水を飲んだだけでも身が汚れる」という意味から、転じて、「どんな苦境にあっても、僅かな悪事にも身を近づけないこと」を表します。
「武士は食わねど高楊枝」の反対語
「武士は食わねど高楊枝」の反対語に当たるのは、「貧すれば鈍する」という言葉。「困窮すれば、生活に追われて思考能力が鈍ってしまい、利口な人でも愚かになる」、「暮らしが貧しくなると心まで貧しくなる」という意味です。
「武士は食わねど高楊枝」の英訳
「武士は食わねど高楊枝」は、武士の名誉や威厳から派生した言葉。英語ではその威厳を「鷲」に例えて表現します。
- 「Eagles eat no fly」:「鷲は(空腹であっても)蝿を食べない」
- 「Eagles eat no carrion」:「鷲は(空腹であっても)腐った肉を食べない」
「武士は食わねど高笑い」とは?
「武士は食わねど高楊枝」をwebで検索すると、「武士は食わねど高笑い」というサジェストワードが出てきます。これは、2018年に放送された『SSSS.GRIDMAN(グリッドマン)』というアニメ作品の中で、「新条あかね」というキャラクターが言ったセリフです。
「高笑い」は「得意になって大声で笑うこと」。高笑いしながら言ったセリフではありませんが、バルタン星人のポーズをしながら言っていたので、「高笑い」という言葉でバルタン星人の「フォッフォッフォ」という声を表現したのでしょう。