「水清ければ魚棲まず」の意味
「水清ければ魚棲まず」(みずきよければうおすまず)とは、度が過ぎるくらい立派で高潔な人物だと馴染めないように感じられて敬遠される羽目になるということわざです。水が透き通って濁りのない状態だと、魚が住み着かない様子から来ています。
「水が清い」のは対象となる人の性格や振る舞いが立派であること、「魚棲まず」で人がその場に寄り付かないことを例えています。なお、このことわざの「魚」は「うお」と読み、「さかな」とは読みません。
「水清ければ魚棲まず」の由来
「水清ければ魚棲まず」は中国由来のことわざで、下に引用した孔子の教えから来ています。孔子といえば儒教の始祖ですね。この説話は孔子と弟子との問答におけるもので、出典は『孔子家語』です。のちの『大戴礼記』にも収められています。
「水至清則無魚。人至察則無徒」
【読み下し文】
「水至って清ければ則ち魚無し。人至って察か(あきらか)なれば則ち徒(あだ)無し」
【現代語訳】
水が甚だしく澄んでいる状態であればその時は魚はいない。人があまりにも察か(物事を見極める力がある・賢いこと)であれば、その時は徒(仲間・同類の人)に敬遠されて周りに誰もいなくなる。
「水清ければ魚棲まず」の使い方
「水清ければ魚棲まず」はネガティブな表現で、あまりにも高潔で少しの欠点も許さない人を批判したり、嘲ったりする時に使います。
ただ高潔な人を指すのではなく、自分と同じ高潔さを他人にも求めてしまうような「融通が利かない人」というニュアンスです。言っていることは正しくとも頑固すぎる人、不正を嫌うあまり周囲から煙たがられている人などですね。
そうした人とは仕事や普段の付き合いにおいて関係を続けるのが難しくなることもあるでしょう。「水清ければ魚棲まず」は、「ほどほどに大目に見ることも必要」と近い立場の人が忠告する、もしくは、目上の立場の人が諭す際に用いることもできます。
例文
- Aさんは厳しすぎて「水清ければ魚棲まず」を地で行っている。一緒に仕事をしたいという人がいない。
- Bさんはほんとに融通が利かない人だ。「水清ければ魚棲まず」のような潔癖症は流行らないんだよ。
- 間違いを正すのは良いことだが、「水清ければ魚棲まず」とも言うように、厳しすぎるとみんなついてこなくなってしまうぞ。
「水清ければ魚棲まず」を元にした狂歌
「白河の清き流れに魚棲まず 濁れる田沼今は恋しき」
【意味】
白河の清らかな流れに魚が棲みかねている。元の濁っている田沼が恋しい。(以前の白河藩主の松平定信が行う政治は潔癖すぎて生き辛い。今となっては前の老中、田沼意次の汚職にまみれた世の中が恋しい。)
上のふたつの狂歌(社会への皮肉や風刺の内容の短歌)は「水清ければ魚棲まず」を下敷きにして作られたもので、どちらも同じ意味です。これらは、江戸時代中期(1787年~1793年頃)に老中の松平定信が中心となって行った寛政の改革を非難しています。
定信は賄賂(わいろ)が横行していた前老中の田沼意次の政治を否定して、清廉潔白な政治を行おうとしました。しかし、武士や庶民に至るまで質素倹約を求めたこと、経済が滞り目立った成果が出ないことから、様々な階級の人々に嫌われてしまい失脚しました。
柔軟に対応できずに理想論に終始する為政者に、当時の人々がいらだちを感じていた様子が見て取れるでしょう。
「水清ければ魚棲まず」に似た意味のことわざ
曲がらねば世が渡られぬ・曲がらねば世に立たぬ
「曲がらねば世が渡られぬ」は、自分の正しさや物事の道理にこだわるだけでは難しい、場合によっては相手に合わせて自分を曲げないと世渡りができないということです。
「曲がらねば世に立たぬ」も同じような意味で、時には自分を曲げないと出世できないことを表現しています。両方とも処世術を表したことわざで、「水清ければ魚棲まず」に通じるところがあります。
【例文】
- 曲がらねば世が渡られぬから、相手の頼みに応じて便宜を図ることにした。
- 曲がらねば世に立たぬは世の常だけど、御礼をもらうのはやりすぎだ。