「是非もなし」とは
「是非もなし」の字義
「是非もなし」の「な(無)し」は、「な(無)い」の文語(歴史的)表現です。
また、「是」は道理にかなっていること、正しいことを指します。「非」は反対に、道理に合わない、間違ったことを指します。「是非」と合わせて使うことで、物事の「正・不正」「善・悪」「良し・悪し」どちらも含めた意味になります。
「是非もなし」の意味
そのため「是非もなし」の字義通りの意味は、「正不正を決めかねる」「良いも悪いもない」「善悪の判断がつかない」といったものになります。ここから転じて「やむを得ない」「仕方がない」という意味になりました。善悪の判断ができないのだから、議論の余地はない。そうするより他に手はない、というわけです。
「是非もなし」の用法
使用例としては、「これ以上交渉は望めませんね。是非もなしです」とか「誰がどう見たって彼の関与は明らかだ。是非もヘッタクレもあるもんか」といった風に使います。あまり、日常的な表現ではありませんね。
ちなみに、「是非もない」は慣用表現となりますので、「是非がない」とか「是非はない」といった使い方をすることは一般的ではありません。(慣用表現ではなく「是非」という言葉を単体で使用する場合にはありえますので、間違いではありません)
同じ内容を示す慣用表現としては「是非ない(是非なし)」や「是非に及ばず(叶わず)」などがあります。
「是非」を使ったその他の表現
「是非」は「物事の善悪」を意味する言葉ですが、ここではさらに理解が深められるように、「是非」を用いた表様々な現について解説します。
「是非」
「是非やり抜くつもりだ」とか「是非お越しください」といった場合の「是非」は、「どうあっても」、「なにがあっても」という意味になります。「良かろうが悪かろうが構わない」くらい強い気持ちを表した表現で、「是非とも」や「是非是非」といったさらに強調した表現もあります。
「是非を論じる(問う)」
「是非を論じる(問う)」といえば、「物事の善悪(正否)について議論する(質問する)」という意味です。「是非もなし」や「是非に及ばず(叶わず)」とは正反対の表現となります。
「是が非でも」「是非も知らず」
「是が非でも」というと、「何が何でも」という意味になります。「是が非でも手に入れてやる」というような使い方をします。
「是非も知らず」は『宇治拾遺物語』にも用例の見える古くからある表現で、意味は「何もわきまえず、我を忘れて夢中になって」となります。
「是々非々」
「是々非々」は、日本の政治家がよく使っているのを耳にする言葉です。元は中国の古典である『荀子』に由来する四文字熟語で、「是を是とし非を非とす、これを知といい、是を非とし非を是とす、これを愚という」とあるとおり、「良いことは良い、悪いことは悪いとする公平さ」を意味します。
織田信長の「是非に及ばず」
さて、日本の戦国〜安土時代を代表する武将である織田信長は、「本能寺の変」において明智光秀に急襲された際「是非に及ばず(もしくは是非にあらず)」と言ったと伝えられています。
信長公記の記述
信長が「是非に及ばず」と言ったことを現代に伝えるのは、彼の旧臣であった太田牛一の書いた『信長公記(しんちょうこうき/のぶながこうき)』です。同書第15巻(最終巻)によれば、
とあります。
「是非に及ばず」の解釈
この文章の解釈にはいくつかの説があるようです。
ひとつは、信長は敵が部下の光秀と知り、思わず「どうしようもない」と悟ったというもの。また、今まで光秀に自分がしてきたことを思い返せば「仕方がない」というもの。もしくは、「上意(命令)」とあることから考えると、敵が光秀だろうと「良いも悪いもない」のだから、要するに出て行って戦えという意味だったとする説もあります。
まとめ
このように「是非もなし」は、「あきらめ」の気持ちとともに「ひらきなおり」の感じもある、一種の「境地」に立った言葉であると言えるでしょう。あまりに多忙な時や、精神的に追い詰められた時、「もうどうにでもなれ」というやけっぱちの気分になった際には、使ってみるのも一興かもしれません。